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『最高機密』~歴史の扉を開けた男たち~<32>


エピローグ ルビヤンカ


求めずして見出されることの多いものだが、

兵士の墳墓こそ、おまえに最善のものだ

はるかに見わたし、ふさわい地をえらび

大いなる憩いにつけ。

                          ジョージ・ゴードン・バイロン

2 一発の銃声

 

 ペンコフスキーの裁判は、一九六三年五月初旬に開かれた。ペンコフスキーは、家族の安全の保障と引き替えに、裁判でも淡々と証言した。公判は、四回で終了した。


 公判が開かれたモスクワの最高裁判所小法廷は五月十六日、国家に対する最大の罪である「反逆罪」で、ペンコフスキーに銃殺刑を宣告した。同時に、ウィンには、スパイ媒介者として、懲役八年が言い渡された。


 ペンコフスキーの身分は、裁判の中で終始一貫、ソ連閣僚会議(政府)に属する国家科学調査活動調整委員会の外国部次長とされた。軍での経歴は、ソ連陸軍の「砲兵隊予備役大佐」とされた。


 ペンコフスキーが、現役のGRU大佐であり、第三指導部特別班上級将校として任務を果たしていたことは、一言も触れられなかった。GRUと委員会の関係、委員会内におけるGRUの存在を意図的に隠すためである。


 ソ連閣僚会議の委員会(省に相当)やその他の政府関連機関に、GRU、KGBが隅々まで浸透していることを知っている人間は、ソ連国内でも限られていた。海外では、もちろん知られていなかった。


 ペンコフスキーは、政府機関に所属する科学技術に詳しい「民間要員」として裁かれた。検察側の主張、判決の中でも、それは徹底された。


 ペンコフスキーが、西側に流した情報は、主に科学技術、経済分野に関するもので、軍事情報は、科学技術分野に関連するごく一部の些細な情報だった、とされた。


 そして、ペンコフスキーの人格が、徹底的に否定された。


 軍検察官ゴルヌイ(中将)は、「被告ペンコフスキーは、陸軍に所属して、素早い昇進を遂げたことはあったようである。だが、被告ペンコフスキーは、日和見主義者であり、野心家である。そして、祖国に対する最大の反逆と裏切りの道を選び、帝国主義諜報機関に金で雇われた、道徳的に腐敗し尽くした人物である」と、断じた。


 ペンコフスキーは、自らの意思で体制との訣別を決断したのであり、ごく一部の必要経費以外には報酬は貰っていなかった。だが、ソ連政府は、ペンコフスキーに「金に目がくらんで魂を売り渡した売国奴」というレッテルを貼った。


 クレムリンは、「売国奴」の醜い素顔とその末路を、国内に徹底して思い知らせるために、裁判記録をソ連国内の全共産党指導者、軍事機関、諜報機関など関連機関に配布した。その数は、十万部を超えた。国内の引き締めを狙ったのである。


 二〇〇一年になって、ロシア公共テレビは、ペンコフスキーは、逮捕が迫った自暴自棄の中で、ソ連が核ミサイルを発射したとの偽情報を流し続け、米国との核戦争を起こさせてソ連を破滅させようとした、とする内容の「ドキュメンタリー」を制作した。


 ソ連からロシアに変わり、四十年もの歳月が流れた今日でも、ペンコフスキーは、徹底的に否定され、貶められているのである。それは、ペンコフスキーが、ソ連に与えた打撃が、計り知れなかったことをいみじくも物語っている。


 ペンコフスキーとウィンの身柄は、判決言い渡し後、間髪を入れずに別々にルビヤンカ監獄に戻された。ウィンは、服役囚として、これまでとは別の獄舎に収監された。


 ペンコフスキーは、ルビヤンカ監獄に着くと同時に、処刑場に引き立てられた。KGBの将校が、処刑執行を告げる。ペンコフスキーは、肩を押されて、両膝で跪く姿勢を取らされた。目隠しもなかった。


 ペンコフスキーは、左の後頭部に鈍く冷たい銃口が突きつけられるのを感じた。その瞬間である。コンクリートの壁で囲まれた処刑場に、一発の銃声が響いた。


 スローモーションのように地面に崩れ落ちたペンコフスキーの遺体は、物のように引きずられ、遺体処理施設に無造作に放り込まれた。そこには、栄光あるGRU大佐に対する敬意は、微塵もなかった。


 ペンコフスキーの判決・処刑直後、ソ連政府は、英国の外交官八人、米国の外交官五人を「好ましからざる人物(ペルソナ・ノングラーダ)」として、国外追放処分にした。SISのエージェントで、英国大使館の駐在武官である、コード・ネーム「アン」ことジャネット・チショルムの夫ロデリック・チショルムも含まれていた。


 ウィンは、六四年四月、西側に捕らえられていたソ連のスパイ、コロン・モロディと極秘裏に交換されて釈放された。


 ペンコフスキーが、最後の最後まで守り通そうとした、母親と妻、二人の娘の安否は不明である。

(World Review 編集長 松野仁貞)


 
 
 

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