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『最高機密』~歴史の扉を開けた男たち~<30>


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第七章 ワシントンDC、モスクワ


戦争というものは、最も卑しい罪科の多い連中が権カと名誉を奪い合う状態をいう。

                                   トルストイ


将来の戦いを避ける方法は唯一つ。即ち政府が戦おうとしても、人民が戦わぬから仕方がないと言う様にすることである。

                                   二葉亭四迷


きれいな水爆があると言い出したりするのは、何とまあバカげたことを言うものだろう。

                             ニキータ・フルシチョフ


5 敗北と勝利


 十月二十四日朝、米国による海上封鎖が発効した。カリブ海には、六隻のソ連潜水艦が終結、米海軍との間で、見えない闘いを繰り広げるなど一食触発の緊迫した状況が続いたが、キューバに向かっていたタンカーが続々とUターンするなどの安堵すべき兆候が現れた。


 だが、二十五日のU2機の偵察写真で、キューバのミサイル基地建設が異常なほど急ピッチで進んでおり、解体されて運び込まれたイリューシン28爆撃機も続々と組み立てが完了していることが明らかになった。


 海上封鎖が始まる前に、すでにキューバには、ソ連が予定していた「積み荷」のほとんどが運び込まれていた。海上封鎖でUターンしたタンカーや二十六日に初の停戦、臨検の対象になった貨物船「マルクラ」号などには、武器は積み込まれていなかったのである。


 ソ連が、キューバでの攻撃態勢の増強を続ける意図であることが、はっきりした。ホワイトハウスでは、マングース作戦の早急な完遂、武力行使案などが、再浮上し始めた。海上封鎖と外交努力による危機回避が、敗北したかのような重苦しい雰囲気が、ケネディと側近たちを包んでいた。


 二十二日のケネディのテレビ演説以後、フルシチョフからは、「キューバに関する米国の行動は、公然たる海賊行為である。米国は、人類を核ミサイルによる世界戦争への深淵に押しやっている」「我々としては、当然の権利を守るために、必要かつ適当と思われる様々な措置を取らざるを得ない。我々は、そのために必要なものは、全て保有している」といった強硬な書簡が、ケネディのもとに届けられていた。


 ペンコフスキー情報で、ソ連の対キューバ政策の表裏を知り尽くしているCIA長官マッコーンは、ホワイトハウスの面々に強く自制を促した。


 「キューバ侵攻、マングース作戦の完遂は、机上で考えているよりも遙かに難しく、大きな犠牲を伴うのです。彼らは、大量の攻撃型兵器、対空兵器、装備を有しています。彼らをキューバから追い出すのは、朝鮮戦争で学んだ以上に困難な事業になるのは間違いありません」


 核対決の重圧感が、まさに秒刻みでのしかかる中で、二十六日、フルシチョフからケネデイに宛てた一通の親書が届いた。


 キューバ危機の最中、ケネディとフルシチョフ、国連事務総長ウ・タントらの間では、何通もの書簡が交わされたが、その中で、公表されなかった唯一の書簡である。


 親書の中で、フルシチョフは、それまでの全面核戦争も辞さぬという強硬姿勢を一変させていた。


 フルシチョフは、「海上封鎖で、核弾頭が見つからないのは、既にキューバに陸揚げされているからだ」と、初めてキューバの核ミサイルの存在を認めた。その上で、「キューバには、これ以上兵器は送らないし、キューバ内の兵器は撤去するか破壊する」「その代わり、米国は封鎖を解き、キューバを侵略しないことに同意して欲しい」と提案、「避けなければいけないのは核戦争だ」と文中で繰り返し述べていた。


 全文十一ページ、受信するのに三時間もかかった。首脳間で交わされる書簡としては、異例の長さである。フルシチョフの書簡は、感情の高ぶりが感じられ、揺れ動く心の軌跡がにじみ出ていた。


 米国政府は、フルシチョフ自身によって書かれた書簡である、と断定した。だが、何故、フルシチョフが、唐突に、そのような書簡を書いたのかということは、謎だった。


 そうした疑問に拍車をかけたのが、翌二十七日に届けられたケネディ宛の親書だった。文面は、フルシチョフからケネディに宛てた形式になっているが、明らかにフルシチョフ自身が書いた書簡ではなかった。複数の人間が推敲を重ねた紋切り型の文面で、トーンは前日のフルシチョフの書簡と百八十度違っていた。


 ケネディらは、クレムリンで何らかの政変が起こっている可能性を考えた。クレムリンの権力闘争、最高権力者の交替は、いつもこのように突然、行われてきたからである。ケネディらの推測とは、違っていたが、クレムリンでは、現実に「異変」が起こっていた。


 KGBは、英SIS(秘密情報部)とCIAにペンコフスキーが流した情報の全容を知るのに、さほど時間を要しなかった。


 ペンコフスキーは、逮捕された時のことを、既に心に決めていた。それは、残された家族を守ることだった。


 ペンコフスキーは、GRU所属の諜報活動のプロである。自らに対する尋問や家族への仕打ちなどKGBの過酷な手口を熟知していた。自分が、頑なな態度を取れば、それは家族への厳しい拷問になって跳ね返る。選択肢はなかった。ペンコフスキーは、KGBに対して、家族の安全が保障されれば、取り調べに協力する旨を伝えた。KGBは、クレムリンと協議を重ね、ペンコフスキーの申し出を受け入れた。


 ペンコフスキーは、米英両国に深刻な打撃を与えることのないように内容を慎重に選びながらも、詳細な供述を始めた。


 逮捕三日後の十月二十五日には、クレムリンは、西側に流れたペンコフスキー情報の骨格をほぼ把握していた。


 クレムリンに激震が走った。


 世界中に展開していたGRU、KGBの将校三百人以上が、間髪を入れずにモスクワに呼び返された。ペンコフスキーが流した情報で、ソ連の諜報網が壊滅的な状況に追い込まれる恐れがあったからである。事実、ペンコフスキーが西側に流した情報で、ソ連の諜報網は、一時、ズタズタになった。回復するには、かなりの時間が必要だった。


 国内では、GRU長官イワン・アレクサンドロビッチ・セロフが、真っ先に降格処分にされ、閑職に飛ばされた。ペンコフスキーを「息子」と呼んでかわいがっていたソ連国防省戦術ミサイル部隊の責任者セルゲイ・セルゲービッチ・ワレンツォフも解任、ソ連邦上級砲兵元帥の階級を剥奪された。数十人にも上るGRU、軍、参謀本部の幹部将校らが、引責処分となった。処分まではいかなくても、夥しい数の配置転換が行われ、組織が至る所で改編された。


 そして、最も大きな衝撃を受けたのが、フルシチョフだった。全世界注視の中で、ギリギリの対決を続けている米国に、手の内が全て見透かされていることを知ったのである。

 フルシチョフは、「これ以上、米国と勝負を続けることはできない」と悟った。それが、二十六日のケネディ宛ての親書となったのである。


 フルシチョフの国際問題担当顧問オレグ・トロヤノスキーは、「フルシチョフは、ロシア人の典型のようなボルトゥン(多弁家)だった。いつもは陽気で、よくしゃべっていた。だが、この頃は、別荘に閉じ籠もり、無口になって苛ついていた」と回想している。


 フルシチョフは、米国との核戦争の瀬戸際に立たされている重圧と闘っていただけではなかった。ペンコフスキーに、打ち負かされたという絶望と混乱の中にいたのである。自らの失脚に繋がる危険性もはらんでいた。


 キューバ危機は、二十七日のキューバ上空でのU2偵察機の撃墜で、緊迫する事態に陥ったが、翌二十八日、フルシチョフがキューバからの撤退を表明、全面核戦争という最悪の事態は去った。そして、十六日に始まったキューバ危機の「13DAYS(13日間)」は、終わりを告げたのである。

(World Review 編集長 松野仁貞)


 
 
 

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