- World Review
- 2022年2月8日
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『最高機密』~歴史の扉を開けた男たち~<31>

KGB本部。中央に立つのは創始者ジェルジンスキーの銅像。本部建物の裏手に、「粛正センター」の異名で恐れられたルビヤンカ監獄があった(写真:Спутник)
エピローグ ルビヤンカ
求めずして見出されることの多いものだが、
兵士の墳墓こそ、おまえに最善のものだ
はるかに見わたし、ふさわい地をえらび
大いなる憩いにつけ。
ジョージ・ゴードン・バイロン
1 粛清センター
グレヴィル・ウィンにも、KGB(カ・ゲ・ベ)(国家保安委員会)の魔手が伸びていた。
一九六二年十月二十二日、ウィンはハンガリーの首都ブダペストにいた。この時点で、オレグ・ペンコフスキーが同日、モスクワで逮捕されたことは、ウィンも英SIS(秘密情報部)、米CIA(中央情報局)も知らなかった。
西側の人間が、ペンコフスキーを目撃したのは、九月五日、モスクワの米国大使館のレセプションが最後だった。それから一カ月半以上経つのに、ペンコフスキーとは連絡が取れなかった。SIS、CIAは、ペンコフスキーの身に異変が起こった可能性を真剣に考え始めていた。
ソ連の支配下にあるハンガリーには、GRU(ゲ・アル・ウ)(ソ連国防軍参謀本部諜報総局)、KGBなどソ連の諜報機関も多数の人間を配置しており、運がよければペンコフスキーに関する何らかの情報が得られる可能性もあった。
SISとCIAは、ウィンのブダペスト派遣を決めた。名目は、大型トレーラーなどの異動展示会開催だったが、万が一の場合のペンコフスキー救出作戦の一環でもあった。
展示品目に、大型トレーラーなど車両関係を選んだのは、ソ連からのペンコフスキー救出を前提にしての選択である。東欧で展示会が好評ならば、モスクワでの展示会開催も容易になる。そして、モスクワの展示会開催中にペンコフスキーの居所を確認したならば、車両の中にペンコフスキーを隠して、脱出させる手筈だった。
ウィンは、どんな危険を冒しても、親友であるペンコフスキーの無事を確認、西側に脱出させる決意だった。四カ月前のシェレメチエボ空港でのペンコフスキーの命懸けの行為を、ウィンは忘れていなかった。自らの命運を賭けてまで、自分を逃してくれた親友の安否を案じなかったことは、一日たりともなかった。
ウィンは、東側の諜報網と果敢に接触を図った。ビジネスの話を通じて知り合ったアルバトフと名乗るブダペスト在住のソ連人、ハンガリー政府がウィンのために準備してくれた通訳らは、KGBもしくはGRUに所属しているか、息が掛かっているのは間違いなかった。だが、ウィンは、素知らぬ振りをした。
ウィンは、彼らが自分に接触する目的は、スパイとして取り込もうとしているためだと思っていた。KGBが、自分を血眼になって追っていることは、全く知らなかった。
「ドナウの真珠」「ドナウの薔薇」と称される古都ブダペストは、ドナウ川東岸の「ペスト」と西岸の「ブダ」(ブダの北側は大ブダと呼ばれていた)が統合されて出来た街である。「ペスト」は、国会議事堂、官庁、由緒ある劇場、レストラン、カフェ、ショッピング街が密集する平坦地だが、「ブダ」は起伏の多い丘陵地帯で、王宮の丘の周辺には緑が多く、閑静な住宅街が点在していた。
十一月二日、「ペスト」の中心部にある市民公園で開かれている展示会会場では、夕方から、ハンガリーの関係者を集めたカクテルパーティーが開かれていた。ウィンもホスト役の一人として、出席していた。
パーティーは、盛況だったが、ハンガリーの関係者は早めに引き揚げた。それが、重大な意味を持っていることに、ウィンは気付かなかった。
ウィンは、通訳から「お疲れ様。イタリア料理のおいしい店があります。口直しにどうですか」と誘われた。通訳とは、これまで何度かレストランやバーに連れ立っており、ウィンは不審に思わず承諾した。
会場を出て駐車場に向かう途中、ウィンは、自分と通訳の周囲に人がいなくなっていることに気付いたが、さして注意を払わなかった。駐車場の反対側の展示スペースでは、英国人スタッフが談笑しているのが見えた。
駐車場には、展示会に興味を持って訪れている自動車好きのハンガリー人たちの車が、ギッシリと駐車していた。駐車場の真ん中ほどまで歩いた時である。ウィンは、「異変」に気付いた。その瞬間、ウィンは前身に冷水を浴びせられたような感覚を味わった。
ウィンは、前夜、アルバトフとブダペストの中心部「英雄広場」近くにあるレストラン・ジェルボーで早めの夕食を共にした。ジェルボーは、一八五八年創業で、皇妃エルジェーベトも常連だった老舗である。
ビジネス絡みの話の合間に、ウィンは、モスクワで異変がなかったかどうか、何度もそれとなくカマをかけた。だが、収穫はなかった。食事が終わると、アルバトフは、しばらく散歩をしようとウィンを誘った。
二人は、ダヌビウス・ホテル・ゲッレールトに向かった。一九一八年創業のブダペストを代表するホテルで、「ブダ」地区のゲレールトの丘の麓にあった。
「ブダ」と「ペスト」は、ドナウ川にかかる六つの橋で結ばれている。ウィンは、アルバトフと別れて、ゲッレールトの丘の麓に通じるエルジェーベト橋を渡り、ドナウ河畔を、ホテルに向かって歩き始めた。
ウィンは、一台のワゴン車がヘッドライトを消して近付いて来るのに気付かなかった。普段は人通りの少ない道だが、この夜は、偶然、ホテルから散策に出た数人の外国人観光客のグループが、通りの向こうに姿を現した。同時に、ワゴン車は、ヘッドライトを点けて、ウィンの傍らを走り去った。
駐車場に止まっていたのは、そのワゴン車だった。ほんの一瞬だった。ウィンが、ワゴン車の存在に気付く間もなく、車内からは、四人の男が飛び出してきた。助手席にアルバトフが座っているのが、ちらっと見えた。
ウィンは、瞬時に頭から黒い袋を被せられ、ワゴン車の中に連れ込まれた。助けを呼ぶ間もなかった、ウィンは、首筋に鋭い痛みを感じ、気を失った。
ウィンが、目覚めたのは、モスクワのKGB本部裏手にあるルビヤンカ監獄の独房の中だった。ウィンは、プダペストからモスクワまで、ソ連の軍用飛行機で極秘裏に移送されたのである。
ウィンが連行されたルビヤンカ監獄は、スターリン時代から、「粛清センター」として、内外に恐れられた場所である。反体制派を、文字通り「粛清」するための建物で、一般市民から知識人、職業軍人、諜報機関幹部に至るあらゆる反体制分子が捕らえられ、過酷な拷問の末に処刑された。スターリン時代には、わずか四年間で、約一千万人が、このルビアンカで命を奪われたとの記録が残っている。
ウィンは、ある日、監獄の覗き穴の前に立たされた。ウィンは、命じられるままに穴を覗いた。ウィンは、息をのんだ。そこに見えたのは、同じく獄に繋がれたペンコフスキーの姿だった。鉄製の粗末なベッドに腰掛けたペンコフスキーは、何日間も寝ていないようにやつれきっていた。
(World Review 編集長 松野仁貞)
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