◇小堀晋一のアジアリポート



 タイの首都バンコク。舞台は2000年に開業した高架鉄道「スカイレール」の軌道上。300メートル離れた建設中のビルの上で銃を構えるゴルゴ13。放たれた銃弾は、見事、走行中の車輪を撃ち抜いた。

 あわや大惨事となる「事故」を引き起こすよう依頼したのは、日本を代表する総合商社の岸河商事。タイで初めてとなる地下鉄事業をめぐってドイツ・ジオメック社と激しいつばぜり合いを演じていたところ、タイ地下鉄株式会社(TMCL)から契約を一方的に反故にされ、ジオメック社に乗り換えられたことに対する報復の依頼だった――。


 日本で高い支持を得ているハードボイルド小説漫画「ゴルゴ13」(リイド社刊)。国籍不明のスナイパー、ゴルゴ13が困難をものともせずに依頼された「仕事」を果たしていくのが基本的なストーリーで、老若男女を問わず愛読者は多い。

 その第147巻の第1話「歪んだ車輪」に描かれたのが冒頭のストーリー。ゴルゴ13に射撃を依頼する場所を実存するルンピニー公園に設定するなど本物そっくりに描かれており、読む者をハラハラドキドキさせ、臨場感はたっぷり。

 「でも、フィクションでしょ?」と言われるかもしれない。ところが驚くなかれ。背景となった契約反故に関するトラブルは、実存する大手商社であった実話を元に構成されていた。ゴルゴ13編集部が目を付けた契約トラブルとは。そして、その顛末は?




 物語は2002年4月某日、東京に本社を置く岸河商事のオフィスから始まった。通勤ラッシュを嫌い、早朝出勤していた重電プロジェクト部の金子英紀部長。そこにかかってきたタイ岸河商事からの1本の電話。「TMCLがうちとの契約を一方的に破棄してドイツのジオメック社と契約を結んだと、こちらの新聞に出ているんです!」

 急きょバンコクに飛んだ金子部長。早速、タイ岸河商事の有本社長らを伴いTMCL本社に乗り込んだところ、待っていたのは、TMCLピチット社長からの「(これまでの)契約についてはあなた方に対して単に“第一優先順位”を与えたに過ぎないもの、と認識しております」という、つれない返事だった。



 

 裏取引を思わせる不可解な動き。「企業人として、ジオメック社のやり方には憤りを感じています」と胸の内を吐露する金子部長。密かに依頼した相手が、タイ岸河商事社長の人脈を介して連絡を取ったゴルゴ13だった。

 ジオメック社は、岸河商事の企業連合が提示したものよりも20億バーツ(約50億円)も安い価格で参入を図ろうとした。「利益を無視した企業活動などありえない!」と反発を強める岸河商事。内部告発を通じて間もなく判明したのは、ジオメック社が規格外の安価で粗悪な中国製部品を地下鉄車両の車輪に使用しようとしているという衝撃的な事実だった。




 このため、岸河商事はゴルゴ13に、ジオメック社が「実績」として売り込んでいた「スカイレール」の車輪の銃撃を依頼。「一人の死傷者も、出さないようにしてほしい」という高度な注文も付した。「スカイレール」にも同様の規格外の車輪が使われていたのだった。「わかった…。やってみよう」と答えるゴルゴ13。ストーリーはここで最大の山場を迎えることになる。

 ここまでお読みになった読者なら、ゴルゴ13編集部が舞台として選んだ当該物語のモデルが、バンコク地下鉄(MRT)の車両・運行システムをめぐる発注業務に絡んで2001年暮れに実際に起きたバンコク・メトロ(BMCL)による一方的な「契約破棄事件」であることをご存じの方も少なくないだろう。

 この時に「交渉停止」を通告されたのが、日本を代表する総合商社・三菱商事と大手電機メーカーの三菱電機、そしてフランスのアルストムの企業連合グループだった。「事前に何らの打診もない、まさに不意打ち。今をもって原因が分からない」。当時、交渉にあたった関係者の一人は振り返る。

 そこで、当時の実際にあった事実とゴルゴ13「歪んだ車輪」の内容を徹底比較。その対照一覧を下段の表にまとめてみた。


 例えば、契約破棄となった発注業務については、地下鉄車両の納入や運行システムなど両者に大きな違いはなく、三菱商事が岸河商事に、バンコク・メトロは(BMCL)がタイ地下鉄株式会社(TMCL)に、スカイトレイン(BTS)がスカイレールに、シーメンスがジオメックに、それぞれ名前が変更されているだけで、基本的な立場や役回りにも相違はない。

 一方、契約破棄についても、文書が届いたのか新聞に掲載されたかの違いだけで、構造上は現実とそっくりに描かれている。

 人物名も酷似している。例えばゴルゴ13への連絡ルートを持つタイ岸河商事の有本社長は、当時の泰国三菱商事の社長を務めた人物と名前が一字違い。岸河商事の「岸」の文字についても、三菱商事東京本社前にあった「岸本ビル」から採ったのではないかとの指摘がもっぱらだ。


このように、作品を読む限りでは、ゴルゴ13編集部がかなり緻密に情報を集め、関係者に取材していたということが読み取れるのだが、当時も今も、三菱商事側には一切の接触がなかったといい、「このことが最大の謎」(関係者)とされている。

 当時、ゴルゴ13編集部のスタッフが約3ヶ月間、バンコクに滞在し、水面下での取材をしていたという証言もあるが、今となっては確認のしようもない。



 どうやら、足跡や証拠を残さない、その情報収集スタイルは、仕事の完璧さを求めるゴルゴ13譲りと言っても過言ではなさそうだ。都市鉄道建設ラッシュの続くタイ・バンコクで、明らかとされる20年目の真実である。(ジャーナリスト 在バンコク 小堀晋一)