◇小堀晋一のフォトリポート


 今から77年前の1943年(昭和18年)2月は、タイからビルマ(ミャンマー)に向けて計画された軍用新線「泰緬鉄道」の本格工事が始まった時期。前年11月に参謀総長が発した当初建設実施命令では、43年末までが工期として掲げられていた。ところが、戦況の悪化によって舌の根も乾かぬうちに計画は見直され、工期は4カ月間短縮され8月末に。輸送量も当初計画の日量3000トンから1000トンに引き下げられるなど完成が急がれた時期でもあった。


現在の「泰緬鉄道」の始発駅トンブリ駅。長閑な街外れにある。


現在の終点ナムトック駅。人家もまばらだ。


 工事の見直しがなされてから2カ月後、今度は泰緬国境の山岳地帯が雨季に突入。広範囲でコレラが蔓延、中国人やマレー人などの賃金労務者や徴用された捕虜の多くが命を落とした。罹患者は少なくとも6000人、うち4000人が死亡したとみられている。死者の全てが捕虜ではなかったものの、戦後、連合国側は好んでこれを「死の鉄道」と呼ぶに至った。今ではその名がすっかり定着するまでとなっている。


山岳地帯への玄関口にあるカンチャナブリー駅。駅前には連合軍兵士の墓地がある。


「死の鉄道」跡地を訪れる欧米人は後を絶たない。


ミャンマー国境近くには岩山を切り拓いた泰緬鉄道跡地が残っている。


 途中、クウェー川に鉄橋が架けられたのが43年5月。全線が開通したのは同10月25日であった。シンガポールに通じるマレー鉄道との一体運用がなされ、管轄権は南方軍総司令官に与えられた。だが、英印軍の激しい空爆にさらされ、実現できた弾薬や糧秣などの輸送量は日量わずか50~100トンほどに止まる。線路や付帯施設も次々に爆破されたものの、工兵部隊の懸命な復旧作業で、終戦まで不通になることはなかった。


戦後、路線の一部はワチラロンコンダム湖の底に沈んだ。


ミャンマー側泰緬鉄道の終着駅タンビュザヤ。標識が残るのみだ。


 戦後、泰緬鉄道は連合軍に接収され、国境で2分。ビルマ側の線路は引き剥がされ、元の徴用先のマレーシアなどに返還された。タイ側については、観光地としての復旧がされ、58年に現在の終着駅ナムトックまでが再開している。クウェー川に架かる現在の鉄橋は、日本の戦後賠償として日本企業が再興したものだ。


クウェー川にかかる陸橋。戦後、日本企業が復興に協力した。


クウェー川と陸橋を車内から臨む。迫力満点だ。


(文と写真:ジャーナリスト 在バンコク 小堀晋一)