◇小堀晋一のアジアリポート


 8年ぶりとなるタイの総選挙結果を受けて、同国最古の政党である民主党が存続の危機に瀕している。2000年代以降タクシン派最大のライバルの地位にあったのが、獲得議席は前回選挙から107議席減のわずか52議席にとどまった(未確定の2議席を除く。5月20日現在。以下同)。タクシン派のタイ貢献党(136議席)、親軍政党の国民国家の力党(115)、新党の新未来党(80)の後塵を拝し第4党にまで勢力を落とす結果に、衝撃を受けた有権者も少なくない。あまりの惨敗ぶりに元首相のアピシット党首は即時辞任。後任には紆余曲折の末にジュリン・ラクサナウィシット党首代行が就いたものの、親軍政権に参画するか否かで党内は分裂模様だ。そこには、同党が抱える構造的な問題がある。


新党首に選出されたジュリン元保健相(民主党提供)

 かつてはタクシン派の「赤」に対する「黄」、すなわち反タクシン派の代名詞としてタイの政治を牽引してきた民主党。08年にはタクシン派の分裂を誘引し、3年余り政権を担った。ところが、威勢を買って選挙戦に臨んだ11年はタクシン元首相の妹インラック氏に敗れ、この時点での総選挙の通算成績は4戦全敗。このころから有権者から厳しい視線が向けられるようになった。  その最大の分岐点が、13年末から本格化したインラック政権に対する退陣要求だった。アピシット政権の影の立役者として知られたステープ元首相(元党幹事長)が陣頭指揮を取り、毎週末ともなると街頭デモに立つようになった。年が明けて以降は連日のデモ行進と頻度も増え、1月半ばにはバンコクの複数の主要交差点を封鎖する「バンコク・シャットダウン」にも発展。対立はピークを迎えた。このころまだ中立を保っていた国軍は和解の道を模索したものの、両派の対立の根は深いと断念。5月22日の軍事クーデターへとつながったというのが、現在につながる大筋の流れだ。  この時、高級住宅街にある豪邸の一室に籠もり続け、デモ行進や集会の様子をテレビで観戦していたのが、他ならぬ前首相(当時、以下同)のアピシット党首だった。イギリス・ニューカッスル生まれの50歳。オックスフォード大学を首席で卒業。経済学修士号を取得後にタイに戻り、政界入りした富裕層家庭のプリンスだ。タイ人が持つチューレン(ニックネーム)はドイツ語の発音から採った「マーク」。本名のアピシットはタイ語で「特権」を意味する。


今回の総選挙で5議席を獲得したタイ国民合力党の選挙看板(番号4)。右がステープ元副首相。

 この時の同党首の姿勢を「決して忘れない」と話す元民主党支持者は少なくない。これらの支持層が今回の総選挙では、親軍の国民国家の力党や財界出身の反軍政党である新未来党などに流れたというのが同党惨敗の主たる構図だった。街頭デモを率いた〝実行犯〟のステープ元副首相がその後、政界を一時退き、出家した後に新党「タイ国民合力党」を結成して選挙戦に挑んだ姿勢とは雲泥の差と映ったに違いない。結果、合力党は5議席を獲得している。  元首相の〝前科〟はそれだけにとどまらない。自らが政権を率いた10年当時、その3年前に成立した新憲法下でまだ実施もされていなかった下院の中選挙区制を自らが育った「イギリスに倣え」とばかりに主導し、事もあろうに小選挙区制に改めてしまったのだった。選挙制度の改変には財界からも強い反対の声があったが、元首相は耳を貸すことさえしなかった。  死票の多い同制度は政権交代というダイナミズムがある一方で、熱狂的な支持者の動向やいわゆる〝風〟によって巨大政党が誕生しやすい危険性をはらんでいる。民主主義の土壌が未成熟で、利益誘導や有権者への饗応という悪しき慣習が残っている地域では諸刃の剣となりかねない。こうした背景に乗って、01年と05年、さらには後に憲法裁によって無効とされた06年の総選挙のいずれにおいても圧倒的な勝利を収めたのがタクシン派だった。


国外逃亡中の兄妹。インラック前首相(左)とタクシン元首相(REUTERS)

 こうして、結果的にタクシン派に塩を送り、前政権のインラック内閣を誕生させてしまったとの思いが民主党を支えてきた有権者には少なからず存在する。それに加えての反インラック街頭デモに対するアピシット党首の高みの見物姿勢。さらには党人材の枯渇に対する暦年の不信が、今次総選挙における惨敗の主因と見るべきであった。  だが、党首辞任により行われた新党首の選出では、アピシット党首の下で副党首を務めたジュリン元保健相が事実上の昇格となり、何ら代わり映えはしなかった。新党首は豊かな南部パンガー県出身の63歳。下院議員を11期務め、第2次チュワン、アピシットの両政権で首相府相や教育相などを務めた生粋の党人派。永らく同党を支え続けてきた財界や富裕層の代弁的存在だ。  民主党は、長かった軍の支配が終わりを告げようと幕を開けた1990年代以降のタイの政局で、〝民主化〟を訴え都度の敵と勇ましく対峙を続けてきた。90年代のそれが軍政だったのに対し、2000年以降はバラマキ政策で政権を掌握したタクシン派に代わっただけのことだ。そのたびに有権者は真の民主化と穏健な社会の維持を同党に託した。だが、どうだったろうか。


選挙戦に臨むアピシット党首(当時)。写真:民主党提供

 国民の多くが期待した相続税制や不動産税制の創設などは見送られ続け、富める者がさらに富む構図は今日まで何ら改められることはなかった。国民皆医療制度創出に向けた取り組みも、大衆迎合主義のタクシン元首相が「30バーツ医療」着手するまで一切が棚上げされてきた。低所得で生活苦にあえぐ人口の4割にもなる農民に対しても、初めて手を差し伸べたのが皮肉にもタクシン政権だった。その一方で、アピシット政権は国民の愛国心をあおり、せいぜいがカンボジアとの国境をめぐる紛争で強硬姿勢を採る程度に止まっていた。  6月上旬にもある新首相の指名選挙では、親軍政党が推す軍政のプラユット暫定首相(元陸軍司令官)が正式に選出されることが確実視されている。目下の関心は、下院の過半数を親軍勢力が維持できるかにある。態度をまだ決していない民主党内では、長きに巻かれろとばかりに連立政権への参加を支持する意見と、それに反対する意見が拮抗している。  だが、どちらに転んだにせよ、同党がキャスティングボートを握ることは最早ないだろう。理念や政策なき政策集団が自らの利益や利権を最優先し、政局に興じてきたツケは限界にまで達している。1932年に当時の絶対王政を倒し、人民党にそのルーツを持つタイ最古の政党民主党は、最大の危機にあることすら自覚できていないのかもしれない。(ジャーナリスト 在バンコク 小堀晋一)