◇小堀晋一のアジアリポート


 タイのプレム・チンスラノン枢密院議長が26日、心不全のため死去した。98歳の大往生だった。1980年代に陸軍司令官のまま首相に就任し、故プミポン国王の信頼を背景に退任後は枢密顧問官へ。98年からは議長の職にあった。枢密院は憲法上、国王個人の諮問機関。だが、強い王権の残るタイにおいては奏上のための唯一のルートとなっており、院の意向が国王の意向とみなされてきた。そのトップが代わるということは何を意味するのか。(ジャーナリスト 在バンコク 小堀晋一)


今年4月のタイ旧正月でプレム議長(中央の白髪の人物)を表敬訪問するプラユット暫定首相ら(首相府提供)

 今年4月10日。暫定軍事政権のプラユット首相(元陸軍司令官)はバンコク首都圏にあるプレム議長邸を訪ねていた。この日はタイの旧正月「ソンクラン」初日。鼻に酸素吸入器のチューブを装着してはいたものの、議長は自ら立って首相らを出迎え、祝賀の挨拶に笑顔で耳を傾けていた。

 この時、すでに98歳。8月下旬には日本で言う「白寿」にあたる99歳を迎えることになっていた。往事に比べ体力の衰えは顕著とはなっていたが、プラユット首相との受け答えを聞いていた側近らは、新政権の樹立に対する並ならぬ関心と見届けなくてはならないという意欲とに感じた。5月4日には猛暑の中、現ワチラロンコン国王の戴冠式にも参列。王位継承を目に焼き付けた。死去はそれから3週間余り後の出来事だった。


タイの首都バンコクで、戴冠式に臨むワチラロンコン国王とスティダー王妃(2019年5月4日撮影)。(c)AFP/Thai Royal Household Bureau

 タイにおいて枢密院議長は、国王に次ぐ高い政治的権威とされる。最大で18人の枢密顧問官の選定には憲法上、議長の副署が必要で、選任権が国王にありながらも自ずと人選は議長の息のかかった人物となる。前国王はそれを承知でプレム議長を重用し続けた。これまでに就任した顧問官は大半が軍出身者や司法官僚、その他の高級官僚で占められている。

 新年祝賀にとどまらず毎年のプレム議長の誕生日にも、時の政権をはじめとした政財界の重鎮らによる御機嫌伺いが恒例行事となっていた。国で唯一の「国家功労者」の称号を持つ同議長。参列者らは議長への接見を重ねることで国王への忠誠を誓った。歴代のタイ王国憲法が掲げ続けている「国王を元首とする民主政体」に議長は欠くべからざる存在だった。

 プレム議長は、インラック前内閣を反政府デモの末に事実上倒したステープ元副首相と同じ南部のソンクラー県出身。南部一帯は伝統的にゴムやスズなどのプランテーションが盛んで比較的裕福な家庭が多い。バンコク首都圏と同様に教育水準も高く、中央の政財界に進出する人材も少なくない。陸軍士官学校を出た議長は軍内部で頭角を現し、78年には事実上の軍トップである陸軍司令官に就任。現職のまま国防大臣も兼務し、80年から8年間は首相を務めた。自身の内閣の閣僚を軍出身者や高級官僚で占めるようになったのはこの頃からだ。


プレム議長(着衣黄色の人物)の誕生日に表敬訪問するプラユット暫定首相(青の背広)ら(2016年8月、首相府提供)

 その議長がタイの政界において〝フィクサー役〟を果たすようになったのは、タクシン元首相が華々しく政界進出を果たすようになってからのことだった。情報通信事業などで富を蓄えた元首相は、豊富な資金源を背景に新党を結成。総選挙で政権を獲得した。

 国家を企業に見立て、論功行賞とばかりに抜擢人事や逆転人事を繰り返すありように、一般の有権者たちからは喝采が沸いた。だがその一方で、議長は苦々しく感じていた。国王という錦旗の下で束ねてきた軍、官僚、財閥・富裕層といった伝統的な支配秩序を破壊する異質なものと映ったに違いない。看過することはできなかった。

 タクシン元首相は力の源泉を、皮肉にも議長が首相時代の民政移管によって本格導入した選挙に求めた。それまで政治的にも経済的にも見向きもされなかった北部や東北部の人々に手厚い支援策を実施。一律30バーツ(約100円)の国民医療体制を完備し、搾取対象だった農家の所得を増やすなどした。だが一方で、元首相は自らの蓄財にも励んだ。こうしたことが伝統的支配層の逆鱗に触れ、2006年の軍事クーデターへとつながった。

 背後に議長がいたことは衆目の一致するところとされる。枢密院サイドも否定をしない。失脚直前、元首相が閣僚懇談会の席で「憲法を超えたカリスマ的人物が政治に介入している」と言い放った言葉が、プレム体制を如実に物語っている。


国外逃亡中のタクシン元首相(REUTERS)

14年5月の軍事クーデターにより始まった現軍政にも、議長は大きく関与をした。当時、プミポン国王は重篤な状態で執務もままらなぬほどだった。国を乱すタクシン派の再興を阻止するため、新たな憲法案の作成とそれを現実のものとする政治日程が画策された。指示系統のトップにプレム議長がいたことは想像に難くない。タイ軍政は、いずれも陸軍司令官を務めたプレム議長(第22代)、スラユット顧問官(31代)、プラウィット副首相兼国防相(34代)、アヌポン内務相(36代)、プラユット首相(37代)という一糸乱れぬ軍秩序の中で、今日の「民政復帰」のための総選挙を目指した。

 プレム議長の後継には、タクシン退陣後の一時期、暫定首相を務めたスラユット顧問官の昇格が固まっている。同顧問官も含め現在15人いる体制にも大きな変化はない見通しだ。ただ、スラユット氏にはプレム氏ほどのカリスマ性は見られず、集団指導体制を採るほどの名目や合意も今のところ存在しない。今後の軍政継続が一気に流動化する可能性がここにある。

 「半分の民主主義」とは、80年代のプレム政権を揶揄して世論が名付けた言葉だ。以来、メディアはタイを語る便利な表現として重用を続けている。事実上の軍が支配する今次のプラユット新政権誕生にあっても、しばしば重ね合わせて引用されるようになった。だが、決定的に異なるのは、背後にプレム政権時にはあった国王からの強い信頼が現政権には見られないということだ。

 良しも悪しくもタイに安定と近代化をもたらした「半分の民主主義」。それを軍政が目指すのも、確かにタイの一つの選択と言えるだろう。だが、このまま予想を超えて事態が流動化するようになった時、残りの半分さえも失われかねない危険性をもはらんでいることだけは忘れてはならない。