◇小堀晋一のアジアリポート


■苦渋の「供養辞退」

 「新型コロナウイルスでお亡くなりになった方のご遺体は当院ではお引き受けできません。ウイルス感染が心配です。どうか他の寺院へお尋ねください」

 こう言って、死体見分を終えたばかりの病院側からの打診を断ったのは、南部地方にある古い有名寺院。信徒が抱くであろう動揺と見えないウイルスへの不安を理由に、僧侶はやんわりと要請を断った。寺によれば、建立以来初めてとなる異例の供養辞退。「苦渋の決断」だったと話す。タイで感染者が急増を始めた3月23日のことだった。


■1日100人規模の感染

 中国から欧州、米州へと感染の広がった新型コロナウイルス。次なる標的の一つとして東南アジアのタイが急浮上している。28日現在、タイは中国を除く東アジア、東南アジアの中で、マレーシア(感染者数2031人)に次ぐ1245人の感染者数を記録。うち3分の2はバンコク首都圏の飲食店や商業施設が一斉封鎖された22日以降のもので、1日100人規模の感染拡大が今も続く。

 欧米人や日本人の居住者も多く周辺国に比べ医療制度も整ったはずの熱帯の有力国で、なぜ急激に感染者が増え続けるのか。つぶさに観察すると、この国の国民性や国の情報発信のあり方に問題があること気付く。

タイ国内の感染状況を知らせるマップ(タイ字紙タイラット)


■強行されたムエタイ

 大規模集団感染(クラスター)発生の始まりは、6日に行われたムエタイ競技だった。タイの国技でもあるそれは勇者を選ぶという伝統的競技のほかに、政府公認の賭場という性格も持つことから、身分や年齢に関わりなく多くの国民が楽しむことのできる一大イベントである。

 バンコク都内ルンピニ・ボクシング・スタジアムで実施されたその日の興業には千人近い観客が集まり、目当ての選手にめいめい声援を送った。2月以降、コンサートなど各種イベント開催が軒並み自粛となり、人々は刺激に飢えていた。久しぶりに羽を伸ばそうと、歓声や賭けにも力が入った。

大規模集団感染の発生源となったルンピニ・ボクシング・スタジアム(スタジアムHP)


 ところが競技の裏側で、スタジアム側は保健省を通じスポーツ庁から自粛の要請があったことを、集団感染が判明したつい最近までひた隠しにしていた。余暇はタイ人にとって欠かせないとの判断があったのかもしれない。売り上げへの誘惑もあったろう。こうして、興業は静かに強行された。事情を知らされない観客は、汚染された飛沫を吸い込むなどして100人以上が一気に感染した。


■ウソが引き金

 タイ人が新型コロナウイルスの感染拡大に敏感となったのは、ムエタイの少し前、日本を旅行したタイ人夫婦の感染が明らかとなってからだった。この夫婦は北海道を観光して帰国。間もなく夫が咳と発熱を訴え病院を訪れたが、非難を恐れて旅行の事実を申告しなかった。

 病院側では当初から感染を疑い治療を開始。ところが、症状が合致しないことから再三にわたり問い詰めたところ、男性はようやく白状した。だが、すでに後の祭り。病院の内外で接触のあった30人が自宅待機措置を受けたほか、同居する孫も感染した。通学する小学校が2週間の閉鎖措置となり、感染は急拡大していった。


■情報が恐怖をあおる

 ウイルス感染に対する人々の恐怖も次第に膨らんでいった。同時に、予防効果があるとされると、我を先にとその情報を求めるようにもなった。「マスクが効果的」とテレビや著名人からの発信がひとたびあれば、薬局の在庫はたちまち尽きた。マスクをしない人との接触を極度に恐れるようになった。

 欧米企業が感染防止のため人との距離を置くよう求める「ソーシャルディスタンス」の広告キャンペーンを開始すると、タイ人もこぞってリツイートした。すると、商店や銀行などの店舗では奇妙な姿勢で接客を行う姿があちらこちらで見られるようになった。エレベーター内では、乗客が一斉に壁に向かって立つようになった(写真㊦ facebook「Inature Thailand」から)。


■托鉢も「ソーシャルディスタンス」

 僧侶による早朝の托鉢が日課の仏教国タイ。新型コロナウイルスはこんなところにも影を落としている。沿線で待ち構えていた信徒が、少し離れた場所に立つ僧侶の鉢に向かって供物を投げ入れる。すると、僧侶も同じように随者に供物を投げて渡す。いずれもソーシャルディスタンスとして有効とされる1.8メートル以上の距離を保っていた。厳かな仏教行為がSNSの格好の餌食となった。

 ※写真はフォトリポート、ビデオはHeadline のページで。

 日系の飲食店にも足を運ばなくなった。北海道での感染以降、新型コロナウイルスが日本と結びつけられて語られるようになった。待合席で隣に座っているのが日本人だと分かると、席を移動しようとする姿が珍しくなくなった。「貴方、日本人ですか」といきなり尋ねられ、気分を害した日本人とトラブルに発展することも少なくなかった。「日本は危ない」という印象が一気に広がった。


■誤解と思い込み

 ところが、こうしたタイ国民の誤った理解や思い込みに政府は進んで関与しようとしなかった。わずかに、死体からはウイルス感染はしないと寺に是正を求めたのみで、それ以外の検証はほとんど行われなかった。

 マスクの着用効果は限定的で、こまめな手洗いの方がよほど予防効果に優れているのに、取り上げられる時はいつもマスクが優先だった。いつしか都市鉄道はマスク不着用の乗客を拒むようにもなった。手洗い励行の訴えは、そもそも習慣のない国民に届くはずもなかった。

都市鉄道ではマスク着用が義務づけられた(小堀晋一撮影)


■国民の行動を読めぬ政府

 百貨店や娯楽施設に加え、飲食店やマッサージ店などを一斉封鎖するにあたって、当然に起こり売る従業員の一時帰休や解雇への予防策も講じられなかった。国民の受け止め方や、収入が得られなくなった場合の行動を政府は読み切れていなかった。

 不安に包まれた人々はとにかく動いた。遊び場所のなくなった若者は、規制されていない海岸や高原の避暑地、さらには居住する町々や村々でレジャーをして楽しんだ。貧しい東北部イサーン地方や北部地方の出身者は、生活費のかからない故郷へと濃厚接触確実な長距離密集バスで帰って行った。地方各地でのクラスター発生の可能性はこうして広がっていった。

飲食店や娯楽施設の一斉閉鎖後、慌ただしくバスで故郷に帰る人々(ウェブニュース局ジャンカオ)


■後手後手の対応

 反響のあまりの大きさに、政府も事後的にようやく重い腰を上げた。失業手当の給付や低利貸付政策などの実施に向けた声明を発表した。だが、どこまでカバーするのかといった明示などは一切ない。食事の配達や持ち帰りで細々と営業を続ける飲食店が、例外になるのではないかといった噂が早くも静かに拡大している。

 首都圏や地方の主要交差点では、遅まきながら交通検問による車両の越境通行も制限されるようになった。ただ全てが後手後手だ。保障は、始期は、範囲は、例外はあるのか。外国人も摘要されるのか。政府の決断と情報発信がひとえに待たれてならない。その瞬間にも、感染は着々と広がっている。

(ジャーナリスト 在バンコク 小堀晋一)