◇小堀晋一のアジアリポート


 作戦従事者9万人超。うち6万人超が戦死・戦病死したとされる旧日本陸軍のインパール作戦。その中止から今年でちょうど3四半世紀。旧日本軍が進軍したミャンマー(旧ビルマ)では、独立後も軍支配の統治が長らく続いたことから、これら地域については外国人の立ち入りは原則許可されず、遺骨の収集などはほとんど行われていない。民政復帰後の近年になって民間団体の活動が許されつつあるものの、時の流れもあって実行効果は限定的で、遺骨との再会を待ち望む遺族の思いは十分にはかなわぬままだ。そんな折、わずかに〝慰霊〟が可能だった中部の日本軍司令部跡地が突如閉鎖され、慰霊に訪れた家族らを途方に暮れさせている。事情を追っていくと、来年の総選挙を見据え〝再選〟を目指すアウンサンスーチー国家顧問による統制の影響であることが分かった。(ジャーナリスト 在バンコク 小堀晋一)


【ロヒンギャ虐殺に続く少数民族弾圧】


 2015年の事実上初となる総選挙で、華々しく「民政復帰」を勝ち取ったスーチー氏率いる国民民主戦線(NLD)。ところが、政権公約に掲げた経済対策が予定通りに進まなかったことに加え、イスラム教少数民族ロヒンギャに対する人権侵害に端を発した少数民族対策などで支持を失い、次回選挙では議席を大幅に減らすことが確実視されている。

 中でも急先鋒で反NLDを叫ぶのが、長い間、国軍と戦闘状態にありながら民政復帰に期待を抱き停戦交渉に応じた少数民族の人々だ。スーチーブームに沸いた前回総選挙とは異なり、失望したNLDとは連立を組まないことを公約の柱として来る選挙戦に備えている。複数に分裂していた同一民族出身の政党が結集して、民族ごとにNLD政権に立ち向かう構図が顕著となっている。

 これに危機感を抱いたスーチー氏は、建国の父として今なお少なくない国民から崇拝されている故アウンサウン将軍の銅像を、少数民族が暮らす地域にくまなく建設し、団結を呼びかける愚策に出た。これに強く反発したのが、こうした辺境に暮らす人々だった。長年にわたって時の政権から虐げられてきた彼らがアウンサウン将軍を崇める動機は少なく、礼賛の対象でもなかった。トップダウンの施策は受け入れられず、スーチー国家顧問がアウンサウン将軍の娘であることが反発に輪を掛けた。


【 旧日本軍慰霊地の閉鎖も】


 こうした中で起こったのが、中部マンダレーから2時間ほど奥地に入ったピン・ウー・ルウィン(旧メイミョー)という街で起こった旧日本軍慰霊地の閉鎖問題だった。慰霊地のすぐ近くには戦時中、インパール作戦を担当する第15軍(司令官・牟田口廉也中将)の司令部が置かれ、多くの将兵が行き来をしていた。司令部が利用したとされる井戸も現存しており、今もなお地域住民の貴重な水源となっている。


旧日本軍第15軍司令部の置かれたメイミョー(現ピン・ウー・ルウィン)の街並み(2019年12月29日、小堀晋一撮影)

 ことの起こりはこうだ。「陸軍墓地」と刻まれたその慰霊碑は、碑の裏面に刻まれた記載によれば戦後間もない「昭和22年(1947年)4月30日」に建立されたとされる。誰が建てたのかなど背景事情はよく分かっていない。戦後しばらくは野ざらしの状態であったとみられるが、いつしかトタン葺きの屋根が施され、風雨をしのぎ、参拝や献花ができるようになった。

 このため陸軍墓地の存在は、ほどなく日本のレアな遺骨収集家や史跡調査団体によって知られるところとなる。しかし、墓石のすぐ近くで雑貨商を営む男性によると、戦闘地域ではなかったことから大がかりな調査チームや日本政府関係者が訪れたことなどはなく、まれに日本人遺族が訪れ献花していくだけ。ヤンゴンや中部サガインなどにある政府が事実上管理する大規模な慰霊施設とは異なり、多くの人々の記憶に刻まれることはなかった。最近になってソーシャルネットワーク(SNS)の広がりとともに墓石のことを知った個人が訪れることはあっても、広く知られることはなかった。


墓石の裏面。「昭和22年4月30日」と読める(2019年5月、参拝遺族提供)

【日本人参拝遺族の身柄を拘束】


 こうした中、今年11月になって突如、この陸軍墓地が閉鎖とされ、静かな波紋が広がっている。墓石を覆っていたトタン屋根は一夜のうちに解体され、立ち入りは固く制限された。理由は、この土地が旧日本軍第15軍司令部跡地を引き継いだミャンマー防衛学校の敷地内にあるということだった。事情を知らずに訪れた遺族が制止を振り切って敷地内に立ち入ったところ、官憲に身柄を取り押さえられ、厳重注意を受ける出来事もあった。

 こうした際も理由は一切、詳らかにされなかった。これまで数十年間、ほぼ自由に参拝ができた墓地がいきなり閉鎖となったのにである。敷地は確かに地籍上、防衛学校管理地の末端には掛かるものの、使用実態は近隣住人の耕作地となっており、長年にわたって野菜の栽培や鶏の放し飼いが行われてきたエリアだ。鉄条網や監視など戦闘地域を惹起させるものは何もない。


「陸軍墓地」には2019年10月まで屋根があった(同5月、参拝遺族提供)

【政権批判の封じ込め】

 近隣住人によると、閉鎖は11月初旬になって軍関係者から一方的に言い渡された。ピン・ウー・ルウィン市内のタクシーやバイク業者など観光客を乗せる運送業者らにも、参拝客を案内しないよう徹底がされた。理由ははっきりとは説明されなかったというが、一様に伝えられたのが「国家顧問の指示だ」ということだった。

 スーチー氏が近年、辺境の少数民族が暮らす地域に相次いで父親のアウンサウン将軍の銅像建設を命じたことはすでに書いた。問題はそれだけに止まらず、少しでも政権批判にアウンサウン将軍が結びつくようなことは御法度とされた。記憶を呼び起こす関連施設も監視の対象となった。行き過ぎた事実上の検閲の波が国中に行き渡った。

 アウンサウン将軍は大戦中、日本の特務機関と連携し、反英組織を作った人物として知られている。日本にも渡航し旭日章も受賞している。「面田紋次」という〝日本名〟もある。その後、日本軍と袂を分かち、独立運動に身を投じたものの、今なお少数民族の中には大戦中に取った行動について懐疑的な見方をする人は少なくない。

 陸軍墓地の閉鎖について、国家顧問省に直接尋ねてみたが、「本省が閉鎖を指示したことはなく、あくまで施設管理権として担当者が判断したと承知している」という回答だった。しかも、今後の再開放についても「予定は聞いていない」とのことだった。


第15軍の監視所があった「マンダレー・ヒル」(2019年10月15日、小堀撮影)

【虚像の果て】

 関係者が黙して語らないため正確なところは分からないが、状況からすれば旧日本軍に協力した父親を持ち、少数民族対策に躍起となるスーチー氏に対し、軍警当局者が過度に忖度した結果が陸軍墓地の閉鎖問題だったと解することができる。旧日本軍の存在が思い起こされることで、アウンサウン将軍の負の記憶が呼び起こされることを当局者が懸念したといえば通りが良い。

 しかし、だからといって、長年にわたって慰霊に訪れながらも唐突に身柄を拘束された挙げ句、献花すらできなかった遺族の胸中は複雑だ。納得できようものでもない。この遺族らは近く、スーチー国家顧問に対し、実情を綴った直筆の抗議文を送ることにしている。

 ノーベル平和賞までをも受賞し、一時は国際民主化活動のシンボルともされたアウンサウンスーチー氏。持ち上げ続けた人々の責任も重いが、晩年のこの失望を回復するのは、かなり難しい。