『最高機密』~歴史の扉を開けた男たち~<9>

第二章 ロンドン 1961年


この胸には、千の心臓が高鳴っている。旗をあげろ、打ってかかれ、勇気の合い言葉、聖ジョージ、身方(みかた)の心にすさまじい竜の怒りを吹き込んでくれ!さあ、かかれ!勝利は、我らのものぞ。

                 ウィリアム・シェイクスピア(「リチャード三世」)


4 駐在武官


 陽の当たる政治将校、砲兵将校の立場から、一転して「闇の世界」の住人となったペンコフスキーは、一九五四年八月にGRU第四指導部パキスタン担当の上級将校として、カラチの大使館駐在武官補として赴任する内命を受けた。だが、パキスタン政府がソ連駐在武官の増員を拒否したために、五五年夏に、在トルコ大使館の陸軍駐在武官補としてアンカラに赴任することになった。もちろん武官補の肩書きは、真の身分を隠すためで、実際はGRUの現地駐在上級将校として、諜報活動を指揮するのが任務だった。

 ペンコフスキーによると、各国のソ連大使館のスタッフの五人に二人はKGBで、五人に一人はGRUのエージェントであるという。各大使館に勤務するスタッフの六割が、KGB、GRUの正規の諜報員ということになる。この比率は、西側諜報機関の推測を遙かに超えていた。

 さらに、大使と言っても、外務省への所属は二次的なもので、党中央委員会に直結しており、非共産主義国に駐在している大使の大部分が、KGBもしくはGRUの諜報将校で、その他の国の場合も、KGB、GRUのメンバーであるケースが少なくないという。

 また、外務省、外国貿易省も独自の情報活動を行っており、KGB、GRUの正規の職員以外の大使館員も何らかの目的のために正式に選抜されて、大使館員として派遣されている。

 ソ連には、西側でいう「外交官」という職業は、存在しないというのである。

 大使館以外の政府機関にも、KGBとGRUは、メンバーを送り込んで、あらゆる組織に浸透している。ペンコフスキーによれば、KGB、GRUが関与していない組織は、ソ連には一つもないという。

 主な組織だけでも、ビュロービン(外国人サービス局)▽モスクワ駐在の外交団にサービスを提供する事務所▽インツーリスト(外国旅行公社)▽国営タス通信社▽国家科学調査活動調整委員会▽国家対外経済交流委員会▽国家対外文化交流委員会▽ソ連文化省▽外務省▽外国貿易省▽世界労働組合連盟ソ連委員会-などがある。

 なかでもジャーナリストは、諜報員(スパイ)が身分を隠して活動するのに格好の職業で、西側世界も自国のマスメディアに必ず、エージェントを記者として潜り込ませている。「取材」の名目で、自由に活動できるからである。ペンコフスキーのGRUの同僚将校も、タス通信、ノーボスチ通信の特派員として米国、英国、フランスなど西側各国で活動していた。

 KGB、GRUが浸透しているのは、これらの他にも▽全ソ「国際書籍」協会▽全ソ商業会議所▽ソ連閣僚会議の宗派問題会議▽ロシア正教会問題会議▽赤十字・赤新月社同盟▽ソ連婦人委員会▽ソ連平和防衛委員会▽ソ連青年団体委員会▽パトリス・ルムンバ人民友好大学▽ソ連対外友好・文化交流協会同盟▽全ソ映画輸出公団▽全ソ映画輸出公団▽モスクワ郵便局▽中央電信局▽ソ連科学アカデミー▽ロモノスフ国立大学-など膨大な数に上る。

 ペンコフスキーが赴任したトルコ大使館も、例外ではなかった。初めての海外任務で見た現実は、ペンコフスキーの想像も超えた世界だった。

 ペンコフスキーは、「トルコに赴任するまでは、外務省や大使館は権威を持った機関であるという漠然とした認識を持っていたが、実際の大使館に存在するのは、党中央委員会の意向とKGB、GRUだけで、これらが全てを支配していた。外務省は、背景でしかなかった」と述べている。

 そして、ソ連の官僚体制には付きものだが、相互監視の目が光る閉鎖的な世界では、陰口やいがみ合いなどは序の口のライバル同士の水面下の争いが、醜く繰り広げられていたのである。

 同行した妻ベラは、フランス語などの語学に堪能で、初めての西側の生活を楽しんでおり、ペンコフスキーも戦略的な最重要対象国であるトルコでの任務に全力を打ち込んでいた。だが、五六年一月、上官に当たる駐在武官として、GRUのニコライ・ペトロビッチ・ルベンコが着任したのを機に、ペンコフスキーも、暗闘の渦に巻き込まれた。

 ルベンコは、GRUの作戦上の偽名で、本名はサブチェンコといった。カブールの駐在武官の経験などがあるが、六十歳の准将で、有能ではなかった。どこの組織でも、こうした不可解な人事は行われるもので、周囲がその都度、我慢を強いられるが、サブチェンコの場合、それだけでは済まない深刻な事態を招くことになった。

 サブチェンコの補佐官を務めていたイオノチェンコが、トルコの対敵情報機関に目を付けられる失態を演じて、トルコ警察に逮捕されたのである。諜報部員には、現地の協力者を獲得するという重要な任務があり、それは、細心にも細心の注意を払って行われるが、サブチェンコとイオノチェンコのやり方は、あまりに杜撰すぎた。

 信じられないことだが、道で出会ったトルコ人を、手当たり次第といった感じでレストランに連れ込み、現金を見せながら「すぐにソ連の秘密情報部員になれる。私の言うことを聞けば、大金を手にすることができる」と持ちかけるようなやり方を続けたのである。

 これでは、トルコの諜報機関でなくても気付くのは当たり前である。イラン国王のトルコ訪問が迫った極めて微妙な時期だった。GRU本部からは、現地の情報提供者との接触は禁じるとの厳命があった。だが、イオノチェンコは、国王訪問中でさえも行動を慎まなかった。

 案の定、イオノチェンコは逮捕され、ペンコフスキーが、身柄引き取りに警察まで出向く羽目になった。これは、極めて重大なことである。トルコ警察の行動の陰には、トルコの諜報機関が存在しており、下手をすればトルコ国内でのGRUの諜報網が壊滅的な打撃を受ける可能性があった。

 ペンコフスキーは、サブチェンコに対して、意見具申したが、サブチェンコは「余計なことに口を挟むな」と怒鳴るだけで、事の重大性を認識していなかった。

 危機感を募らせたペンコフスキーは、モスクワに報告することを決意する。だが、GRUの正式な報告系統は封じられていたため、やむを得ずKGBの連絡網を使うことにした。GRU本部との連絡には、サブチェンコの許可が必要だったからである。

 KGBを通じて、ペンコフスキーの報告を受け取ったGRUは、五六年十一月、ペンコフスキーを即刻、召還した。そこで、ペンコフスキーを待ち受けたのは、KGBの連絡網を使ったことに対する執拗な詰問だった。最大の競争相手であるKGBを巻き込んだことで、GRU幹部は激怒したのである。それほどまでに両諜報機関のライバル意識の根は深かった。

 ペンコフスキーは、微妙な立場に置かれることになった。だが、ほどなくして、一連の騒動がフルシチョフの耳に達することになった。KGBを関与させていたことが、思わぬ展開につながったのである。

 五三年のスターリンの死後、ソ連の最高権力を手中に収め始めていたフルシチョフは、諜報活動に特別の関心を寄せていた。あらゆる情報が、自らの元に集められるようなシステムを構築しており、「事件」を知ったフルシチョフは、徹底した調査を命じた。

 その結果、ペンコフスキーの処置は正しかったことが認められ、サブチェンコはGRUを免職になり、東洋研究所の一幹部に左遷された。

 一方、イオノチェンコは、理由は分からぬが免職をかろうじて免れ、アカデミーの教官を経て、その後、北ベトナムのホー・チ・ミンの情報問題の顧問としてベトナムに赴任している。

(World Review 編集長 松野仁貞著)


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