『最高機密』~歴史の扉を開けた男たち~<8>

FILE PHOTO: A general view shows the headquarters of the Main Directorate of the General Staff of the Armed Forces of the Russian Federation, formerly known as the Main Intelligence Directorate (GRU), in Moscow, Russia September 6, 2018. REUTERS/Stringer


第二章 ロンドン 1961年


この胸には、千の心臓が高鳴っている。旗をあげろ、打ってかかれ、勇気の合い言葉、聖ジョージ、身方(みかた)の心にすさまじい竜の怒りを吹き込んでくれ!さあ、かかれ!勝利は、我らのものぞ。

                 ウィリアム・シェイクスピア(「リチャード三世」)


3 GRU(ゲ・アル・ウ)


 一九四九年末のことである。「赤い貴族」の一員となったペンコフスキーに、大きな転機が訪れた。それは、その後のペンコフスキーの運命を決定付ける出来事となった。

 ソ連国防省地上軍司令官の幕僚を務めていたペンコフスキーに、軍事外交高等士官学校入学の話が持ち上がった。

 モスクワの地下鉄オクチャブリスコエ・ポーレ駅の近くにあるとされる軍事外交高等士官学校は、通称アカデミー(隠語で「音楽院」)と呼ばれる。軍諜報将校の専門養成機関で、アカデミーを修了することは、GRUの一員となることを意味していた。ペンコフスキーの能力に目を付けたGRUが、白羽の矢を立ててきたのである。

 GRUの一員となることは、砲兵将校としての輝かしい軍歴に終止符を打つことである。しかし、一方で、ソ連の支配階級に奥深く食い込み、特権的立場をさらに強固にすることができる大きなメリットも備えていた。

 ペンコフスキーは、赤い貴族として立身、栄達することに邁進していた。ペンコフスキー自身の負けず嫌いな性格もあるが、ソ連という特殊なシステムの中では、自らの地位に、人生の全てが付随していたからである。少しでも「人間的」な生活を営もうとしたら、ソ連の軍、官僚、政治機構の中で階段を登り続ける以外に道はなかった。

 後戻りはできない選択だったが、ペンコフスキーは、アカデミー入学を承諾、その後すぐに(一九五〇年二月六日)、大佐に昇進した。その時、ペンコフスキーは三十一歳になったばかりである。砲兵学校を卒業して新任少尉となってから、わずかに十一年しか経っていなかった。ペンコフスキーは、同僚も目を見張る早さで昇進したのである。

 アカデミーで、軍事スパイとしての教育、訓練を、三年間にわたって徹底して受けたペンコフスキーは、一九五三年七月二十二日、優秀な成績で全課程を修了、GRU第四指導部の上級将校に任命された。

 GRUの本部は、モスクワのポレジャエフスカヤ通りにある。本部は、ホディンスク軍用飛行場周辺に密集している飛行機やロケット製造の秘密工場を取り巻くように建てられた高い塀に囲まれている。総ガラス張りのような九階建ての建物で、「水族館(アクアリウム)」と呼ばれている。

 本部へ出入りする道は、たった一つしかない。二つの秘密工場の間の狭い通路で、両脇は高さ十メートルの塀に挟まれている。通路には検問所が何カ所もある。通路を通り抜けると広場があり、そこでも四方から監視される。さらに建物に入るには、三度の身分チェックと金属探知機による検査が待ち構えている。ライターの持ち込みも禁止されている。

 ソ連軍内部では、GRUは「44388部局」と呼ばれていた。もちろん、一般の国民は、GRUという組織が存在することさえも知らなかった。

 ペンコフスキーが、GRUに入った時の長官は、マトベイ・ワシリエビッチ・ザハロフで、第一国防次官、最高会議代議員、党中央委員を兼任してた。在任は、一九五〇年から五一年で、当時の階級は大将(後に参謀総長となり、元帥に昇格)だった。

 五一年から五六年にかけては、ミハイル・アレクセービッチ・シャーリン(中将)が在任、五六年から五七年は、セルゲイ・マトベービッチ・シュテメンコ(中将)、五七年から五八年末まではシャーリンが再任された。

 五九年一月からは、イワン・アレクサンドロビッチ・セロフ(大将)が長官の職に就いている。セロフは、ペンコフスキーにとって極めて重要な人物で、後にペンコフスキーはセロフに気に入られて腹心の立場を得ることになる。セロフの下には、作戦問題担当のアレクサンドル・セメノビッチ・ロゴフ(少将)、部内の一般行政問題担当のハジ・D・マムスーロフ(少将)の二人の次官がいた。

 GRUの活動は、①戦略的情報活動②作戦的情報活動③戦闘的情報活動-に大別される。西側の防衛体制、攻撃兵器などの軍事機密の入手、政治、経済、科学の各分野での諜報活動の他に、宣伝活動、挑発、脅迫、テロ、破壊活動などがGRUの任務である。組織は、それぞれの作戦担当毎に各部署に分かれている。殺人のプロであるソ連最強の特殊部隊「スペツナズ」もGRUの組織に含まれている。

 「第一指導部」は、イリーガルと呼ばれる海外に展開する非合法活動員を束ねている。部長は、L・K・ベクレネフ(海軍少将)で、ベクレネフは同部長を務めた後、一九六二年にソ連の海軍武官として米国に派遣されたが、六三年初めに米国を追放された。ペンコフスキーの漏らした情報によるとされる。

 「第二指導部」は、ヨーロッパ諸国を対象にした戦略情報活動を担当している。アレクセイ・アンドレービッチ・コノワロフ(陸軍少将)が率いる。

 「第三指導部」は、米英を主に対象にした戦略情報活動を担当、V・S・ソコロフ(准将)が束ねる。英国に友好的な国やオーストラリアなど旧英連邦諸国、中南米諸国も対象で、部内は、各国の担当毎に責任者が決められている。

 「第四指導部」は、アカデミーを修了したペンコフスキーが最初に配属された部署で、部長はP・P・メルキシェフ(少将)、中東や極東諸国を対象にした戦略情報活動が担当である。インド、パキスタン、アフガニスタン、トルコなどで活発な活動を展開していた。「友好国」である中国や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)も同部の対象になっている。

 「第五指導部」は、ミハイル・アンドリヤノビッチ・コチェト(少将)が率いる部署で、テロ、破壊活動を任務にしている。ワシントン、ニューヨーク、ロンドン、ベルリンなど世界の主要ポイントを対象に、どの建物を爆破し、誰を暗殺し、何を破壊するのかなどの作戦計画を立てている。必要とあれば、命令一つで、即時実行に移される。

 「第六指導部」は、国境付近の各軍管区に置かれた情報活動機関を束ねている。別名は、作戦指導部だが、ペンコフスキーは、部長の名前には触れていない。

 「情報指導部」は、海外の駐在部から送られてくる情報を分析、評価して、まとめることを任務としている。N・A・コレネフスキ(少将)が、部長を務めている。

 「スペツナズ」は、破壊工作、襲撃、暗殺、テロを任務とするソ連最強の特殊部隊で、隊員は選りすぐられた軍のエリート、装備も空挺部隊など他の軍の特殊部隊をはるかに凌いでいる。隊員は、三万人を超える。

 隊員は、「暗殺者」として西側に潜入して、対象の抹殺を実行するなどの任務を果たすための厳しい訓練を受ける。最初に学ぶ英語は、「静かにしろ、さもないと殺すぞ」という言葉である。最終訓練は、北極海のフランゲリア島の訓練キャンプで、幾つものチームに分かれて、実戦さながらの過酷な数カ月を過ごす。

 最強の部隊は、モスクワからゴーリキに向かう途中にある閉鎖都市コヴロフに本拠を置いていた。モスクワ軍管区の最精鋭空挺部隊スペツナズ旅団である。各地に展開している部隊は、「狩人(オホートニキ)」、「襲撃者(レイドビキ)」など様々な呼び名が付けられている。

 スペツナズは、一九六八年のプラハ侵攻、七九年のアフガニスタン侵攻でも先導を務めた。八一年のポーランドの民主化組織「連帯」粉砕のための戒厳令では、ポーランド軍の制服を着たスペツナズが、指揮を執っていたという。

 GRUは、アカデミーの他にも、軍事外国語研究所、通信研究所、若手将校のための情報活動訓練学校、非合法活動員訓練学校、などの多くの付属機関を持っている。テロリスト養成機関では、約二百人が常時、殺人マシーンとなるべく訓練されている。

 また、GRUは、外国の工作員、テロリストの養成も任務としており、国内では、クリミアのサンプロパル軍事アカデミー、オデッサの高等歩兵学校などで、極秘の内に訓練が行われているという。

 当時、西側諜報機関の間では、GRUはKGBの下部組織ではないかという説が根強く存在していた。

 CIAやSISなどの推定では、KGBは、本部や各部局のスタッフだけで十万人を超えると見られており、軍隊組織である精強な国境警備隊や海外で活動するエージェントなどを含めると四十万人を超える大所帯で、国内外の協力者などを含めるとKGBのスパイ網で働くスタッフは百五十万人にも上るとされている。

 これに対して、GRUは、本部関係のスタッフは約五千人足らずとされていた。国内のスタッフは約十万人、国内外で諜報活動に関わる全ての人数は相当な数に上ると推計されるが、KGBに比べれば、圧倒的に規模は小さいと見なければいけなかった。

 加えて、KGBはGRUと同じ海外での諜報活動も任務としていたが、国内でのもう一つ重要な任務があった。これは、GRUの任務にはないもので、国内の政治秘密警察の総元締めとして、党や軍の幹部から一般国民に至るまでのあらゆる人々を対象に監視の目を光らせていたのである。KGBの紋章には、剣と楯があしらわれている。それは、まさにソ連共産党の「剣と楯」となるべきことを意味しており、ソ連の共産主義体制を支える根幹として、あらゆる国民の生殺与奪の権限を手中にしていた。

 もちろんGRUもその対象だった。KGBに睨まれれば、いかなる高官でもその地位は安泰ではなかった。海外に出るGRUの高級将校といえども、KGBの厳格な審査をパスしなければ許可を得られないという状況に置かれていたのである。

 こうしたことから、西側諜報機関では、GRU下部組織説が唱えられていた。些細なことのようだが、敵対する組織についての正確な知識がなければ、取り返しのつかない致命傷を被ることになる。

 ペンコフスキーによれば、GRU、KGBともに党中央委員会の監督を受けているが、全く別個の組織で、GRUでは、KGBを「隣人(サセード)」と呼んでいた。それは親しみを込めた呼び方ではなく、強烈なライバル意識と憎悪を内包していた。KGBの手が伸びないように組織防衛するためのセクションさえも持っている。

 規模は、KGBに比べて圧倒的に小さいながらも、GRUにはKGBに匹敵する莫大な予算が割り当てられており、少数精鋭で、軍事を中心にした対外諜報に特化していることから、KGBを凌ぐほどの「戦果」を挙げていた。

 あのリヒャルト・ゾルゲもKGBではなくGRUの将校である。一九四一年六月、ドイツのソ連侵攻をいち早くスターリンに報告、同年十一月上旬、真珠湾攻撃の計画を突き止めたのも東京や上海などで活動していたゾルゲが率いるチームだった。

 ゾルゲは、その後、逮捕されて死刑判決を受け、一九四四年十一月七日、絞首刑に処せられたが、ソ連は戦後、「社会主義労働英雄」の称号を贈った。最高の成果を上げたエージェントとして称えたのである。ソ連と東ドイツでは、処刑の年が記されているゾルゲの切手が発行されている。国民の人気も高く、ゾルゲは処刑されたのではなく、スパイの交換で帰国し、ソビエト軍の高官に昇進したという伝説が語られていたという。

 少し後の話になるが、西ドイツのNATO軍基地ツエルからサイドワインダー・ミサイルを盗み出し、国際労働機関(ILO)の職員を偽装してフランス政府から最新型ミラージュ戦闘機の設計図を入手するなどしたのもGRUである。

 KGBよりも小規模ではあるが、狙った相手は、確実に噛み殺す威力を秘めた組織が、GRUなのである。

 ペンコフスキーによって、明かされたGRUの全容は、西側諜報機関の長年の疑問を一瞬にして氷解させた。組織の詳細、GRU高官の名前、それぞれの役割、背景など、どれもが「最高機密」に属する情報だった。(World Review 編集長 松野仁貞)