『最高機密』~歴史の扉を開けた男たち~<12>


第三章 モスクワ 1961年5月


私は、祖国を愛するが、この不思議な祖国愛というものは、私の理性では到底、説明がつかない      

                            ミハイル・レールモントフ


当時はもっともらしく見えた数多くの事柄が、今となっては疑わしく見えます

                               ウィリー・ブラント


2 母なるロシア


 ペンコフスキーとモスクワで同居を始めていた母親は、息子の栄達を目の当たりにして、手放しの喜びようだった。妻も、夫の立身出世に大きな幸せを感じていた。

 ペンコフスキーは、何も知らない母親と妻子の行く末が、唯一、心配だった。亡命する事態になっても、家族全員が無事にソ連を脱出できるとは限らない。まして、逮捕されることになれば、家族の命の保障はなかった。

 ペンコフスキーが、家族を犠牲にする危険を冒してまで、何故、ソ連を裏切る決断をしたのかについては、謎である。だが、ペンコフスキーが書き記し、奇跡的に残存している膨大なメモから、その一端を窺い知ることが出来る。

 ペンコフスキーの心の中に、ソ連との訣別を決意する気持ちが生じたのは、高級諜報将校教育の一環として、一本の極秘フィルムを目にした時からだったという。

 ペンコフスキーが、GRUの軍事外交高等士官学校(アカデミー)在学中のことである。軍や諜報機関の幹部でも見ることが出来るのは、ごく一部に限られているソ連最初の原爆実験のフィルムだった。

 そこには、原爆の威力を示す悲惨な光景が写っていた。

 ロシアの豊かな森林や小鳥のさえずり、草原を駆ける動物たちなどの映像に続いて、地上の原爆投下地点が映し出される。投下地点から半径二キロの範囲には、普通の家屋やビルなどの建物、乗用車や戦車などの軍事車両が、配置されていた。二キロの半径内には、牛や馬、羊、犬などが、樹木に繋がれていたり、放牧されていた。

 原子爆弾は、充分に安全高度を保った飛行機から、投下された。その次の瞬間には、投下地点周辺にあった全てが、地上から消え去っていた。

 投下地点周辺では、数カ月に渡って、あらゆる専門家による爆発の効果についの検証が行われたという。

 GRU大佐として、クレムリンや軍中枢部の絶大な信頼を勝ち得たペンコフスキーは、その後も、何度となくソ連の核開発の極秘情報に接する機会を得ることになる。ペンコフスキーには、超大国としてのソ連の実力と共に、内在している杜撰さも手にとるように分かった。核、ミサイル実験は数限りなく繰り返されてきたが、悲惨な結果に終わったケースも少なくなかった。その全てが、公表されずに、「偉大な成果」だけが、国内向けにも対外的にも喧伝されていた。

 フルシチョフは、「核ミサイルを雨あられのように降らせる」との脅し文句で、外交的な成果を勝ち取ろうとしており、それは、陸軍の有能な軍人であるペンコフスキーにとっては、ソ連を破滅に導く由々しき冒険主義に映った。そして、ペンコフスキーを「最終兵器」を使わせてはならないという確信へと導いていったのである。

 軍内部でも、こうした懸念を抱く人間は、ペンコフスキー以外にも少なからずいた。ソ連邦英雄である元帥ジューコフもその一人だったが、核による冒険的な瀬戸際政策を非難して、フルシチョフによって追放処分の憂き目にあっている。

 ソ連国防軍の戦術ミサイル部隊の総指揮官であり、ペンコフスキーを「息子」としてかわいがってくれているセルゲイ・セルゲービッチ・ワレンツォフ(上級砲兵元帥)も、フルシチョフには、批判的だった。表には出ないまでも、まともな軍人の中には、こうした人物が、少なからず存在していた。

 彼らも、ペンコフスキーと同様に、国内の政治的な駆け引きではなく、純粋な軍人として、ソ連の現状、行く末に危機感を感じていたのである。

 ソ連が、無謀な政策を採り続け、核が使用されることになれば、相手国からの核による報復も行われることは必至で、双方に大きな犠牲がでることになる。全面核戦争という事態になれば、米ソ両国だけの問題ではなく、全人類が滅亡の危機に直面することになる。

 そして、何よりも、ペンコフスキーにとっては、母なるロシアの無辜の民が、自国の愚かな指導者たちの犠牲になるのは、どうしても許せなかったのである。その犠牲者の中には、ペンコフスキーが愛する家族も、もちろん含まれることになる。

 正当な闘いの末に、敵の手にかかるのであれば、納得もできる。だが、自国の愚かな政治のために家族が犠牲になるのは、ペンコフスキーにとって、我慢の限界をはるかに超えていた。

 ペンコフスキーは、初めて西側との接触を決意した一九六〇年八月ごろから書き始めたメモの中で、当時の思いを次のように記している。

 『何かの病気か伝染病が、我々の祖国を内部から蝕み、食い荒らしているのを何とかして止めなければいけない』(※1)

 『フルシチョフは、戦争を放棄していない。まず、米国と英国をその攻撃目標に選んでいる。ソ連邦は、平和のための闘争を隠れ蓑にした核戦争の熱心な挑発者だ。私は、モスクワで核の悪夢の中で暮らしている。私は、彼らの核武装の全てを知っているのだ。彼らは、全世界征服を企んでおり、全く思慮を失って、核戦争を始める危険もある。彼らは、ロシア国民を破滅させようとしている。私は、私の新しい協力者、新しい友人たちと共に彼らを打倒する決意である。神も、この偉大にして重要、崇高な使命のために、我々を助けてくれるだろう』(※2)

 メモには、この他にも、ペンコフスキーが、モスクワ、クレムリンとの訣別を決断した理由が、切々と綴られている。

 『私は、たまたま将官の娘と結婚したことで、たちまちソ連上層階級社会に加わることになった。私は、ほどなく、彼らの党や共産主義に対する賛美が、口先だけのものであることを理解した。彼らは、嘘を付き、欺き、互いに陰謀を企てて、滅ぼし合っている。金と自分たちの出世を求めて、友人や同僚についてKGBの密告者となる。彼らの子弟は、ソ連のものは軽蔑し、外国のものにしか興味を示さず、庶民を見下している』(※3)

 『我々の体制が作り上げてきた共産主義は、偽物である。私自身も偽物である。ソ連上層階級の一人だからである。私は、我々の愛すべき指導者や指揮官たちはもちろん、私自身にも嫌悪を感じ始めていた』(※4)

 『私は、ソビエト体制を信じ、それに立ち向かってくる者とは、誰とでも闘うつもりだった。だが、今振り返ると、スターリングラードからベルリンへと私を突き進ませ、第二次大戦後の新たな任務に私を駆り立てたものは、ソ連共産党ではなかった。そこには、別のものが存在していた。それは、母なるロシアのために闘っているという意識だった。スウォーロフ元帥やクツーゾフ将軍のロシア、ミニンやポジャルスキーのロシアのために闘っていたことを、はっきりと悟った。それは、決して、ソビエト・ロシアのためではなかった』(※5)

 スウォーロフ、クツーゾフ、ミニン、ポジャルスキーは、いずれも帝政ロシア時代の人物である。

 スウォーロフ元帥は、オーストリア・ロシア連合軍の司令官として革命フランス軍を撃破、また、クリミア半島を巡るトルコとの戦いで勝利した英雄である。日露戦争当時のバルチック艦隊の旗艦である戦艦「スウォーロフ」は、同元帥を称えて命名されている。

 クツーゾフ将軍は、五十万のナポレオン軍を相手に勝利を収めた帝政ロシアを代表する英雄である。その活躍は、トルストイの小説「戦争と平和」などにも描かれている。

 ミニン、ポジャルスキーは、ロシアがフィンランド、ポーランドに蹂躙された時、国民軍に身を投じて、モスクワ解放を果たした英雄である。

 ソ連の現体制に重大な懸念を抱くようになったペンコフスキーは、帝政ロシア軍の将校だった父親が命を賭けて守ろうとした「母なるロシア」のために、父親が立ち向かったのと同じ「ソビエト・ロシア」を相手にして、闘いを挑むことになった。

 ペンコフスキーの心の中では、父親を明確に意識することはなかったが、奇しくも同じ道を辿ることになったのである。

(World Review 編集長 松野仁貞)

 (注)※1~※5は「THE PENKOVSKIY PAPERS」参照


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