『最高機密』~歴史の扉を開けた男たち~<10>

第三章 モスクワ 1961年5月


私は、祖国を愛するが、この不思議な祖国愛というものは、私の理性では到底、説明がつかない      

                            ミハイル・レールモントフ


当時はもっともらしく見えた数多くの事柄が、今となっては疑わしく見えます

                               ウィリー・ブラント


1 ロシアン・ルーレット


 一九六一年五月六日、ロンドン訪問の日程を終えシェレメチエボ空港に着いたオレグ・ペンコフスキーは、十六日ぶりにモスクワの土を踏んだ。

 旅人が、最初に、異国というものを実感するのは、空港に降り立った時である。モスクワ、ロンドン、パリ、ニューヨーク、バンコク、上海などそれぞれの都市に、それぞれの違った「匂い」がある。国の「匂い」というのではない。それぞれの街の「匂い」であり、それが、異国に着いたという事を脳髄の奥まで感じさせてくれる。

 街の「匂い」は、新たな世界に対する興味をかきたたせてくれる。一方、自国に戻った時には、空気のように慣れ親しんだ「匂い」が、安堵感を与えてくれるものである。

 しかし、ペンコフスキーは、落ち着かなかった。モスクワの中心部に向かう車の中でも、ペンコフスキーは、捉えがたい違和感に襲われていた。見慣れた風景も、異国のそれに思われた。

 ペンコフスキーは、自国に戻って初めて、これまで自分を育んでくれた体制そのものが、今や、はっきりとした敵になったことを実感したのである。

 世界で最も厳重な監視体制が敷かれているソ連、それも首都モスクワで、常人では不可能とも思える闘いを挑むのである。失敗は、死を意味している。味方は、誰もいない。特権階級、赤い貴族の一員である自分を幾重にも守ってきた全てが、今度は鋭い刃となって、隙あらば襲いかかってくることになるのである。

 ペンコフスキーは、一瞬ではあるが名状しがたい恐怖を感じた。だが、自らの選んだ道である。闘い、そして生き抜かなければいけない。じっと目を閉じたペンコフスキーは、選りすぐりの軍人、諜報員の本能にも似た熱い血が、五体の隅々まで流れ始めるのを感じていた。

 ペンコフスキーのロンドン訪問の成果は、モスクワで、最大限の賛辞を持って迎えられた。英SIS(秘密諜報部)、米CIA(中央情報局)が準備して渡してくれた鉄鋼技術関係などの膨大な資料は、国家科学調査活動調整委員会、党中央委員会、GRU(ソ連国防軍参謀本部諜報総局)幹部を驚嘆させるに充分だった。

 ロンドン大使館のGRUの責任者からも、委員会宛に、ペンコフスキーのロンドンでの任務を賞賛する詳細な報告が寄せられた。それには、ペンコフスキーの献身的な協力に対する感謝の念とペンコフスキーの将来を嘱望する言葉が綴られた「私信」が添えられていた。異例のことである。これらは全て、GRU長官イワン・アレクサンドロビッチ・セロフ(大将)の手元に送られ、セロフを通じてクレムリンにも報告された。

 クレムリンは、モスクワ中心部の城壁で囲まれた一角で、最高権力者の執務の場所である。米国のホワイト・ハウスと同様に、国家権力の中枢と言う意味合いで使われている。

 ペンコフスキーに対するクレムリンの信頼は、より一層、強大なものになった。ペンコフスキーを疑う者は、誰一人としていない。それは、胸に秘めた「任務」を果たす最大の武器となった。

 セロフとペンコフスキーの関係は、プライベートでも、深まった。ペンコフスキーは、ロンドンで、セロフの「特別任務」をこなしていた。ロンドンに出発する直前、ペンコフスキーは、セロフから、ロンドン旅行をせがんでいるセロフの妻と娘の世話を託されていたのである。

 セロフ夫人とモスクワのミコヤン航空大学の最終学年に在学している娘スベトラナは、代表団と同じ飛行機で、一般の観光客としてロンドン入りした。

 ペンコフスキーは、ロンドンでの殺人的なスケジュールの中でも、親身になって二人の世話をした。こうしたことも、権力の中枢で生き残っていくためには、重要な仕事だった。

 ペンコフスキーは、二人をデパート、レストラン、そしてピカデリー街のナイト・クラブにまでエスコートした。二人が、旅行者用の割り当て外貨を使い果たすと、二人には分からぬようにGRUの秘密資金から用立ててやったりもした。

 二人は、代表団より一足早く、ソ連籍の船で海路、帰国した。手放しの喜びようだったことは、言うまでもないが、それはまた、セロフをもことのほか喜ばせた。

 モスクワに戻ったペンコフスキーは、グラノフスキー街のセロフの自宅アパートやモスクワ郊外の別荘(ダーチャ)に何度も招かれ、家族ぐるみで歓待された。

 ペンコフスキーは、ロンドンで、ロシアのジプシー音楽の歌手として人気のあったロシア系移民レシチェンコとベルチンスキーのレコードを何枚か買い求めて、セロフにプレゼントしていた。ソ連国内では、入手できないレコードだった。スベトラナは、セロフが上機嫌で毎晩のようにレコードをかけて聞いていることを、ペンコフスキーにこっそり教えてくれた。

 セロフの住んでいるアパートは、高級幹部専用で数棟に分かれており、セロフの棟だけでも同じ階にはソ連邦検事総長ルデンコ、階下にはソ連邦元帥ジューコフ、一階には党中央委員スースロフら錚々たるメンバーが入居していた。

 このアパートには、フルシチョフも部屋を持っているとされおり、そうした場所に出入りできることは、クレムリンの極秘情報に接する機会があることを意味していた。セロフの自宅や別荘で頻繁に開かれるパーティーも、情報の宝庫だった。世の東西で同じであるが、アルコールが入り、気の知れた仲間たち、それも情報の機密レベルが同じ特権支配階級の集まりともなれば、昼間以上の様々な話が飛び交うことになるからである。

 ペンコフスキーは、西側のスパイにならなければ、この世で最も恵まれた世界の住人でいられたのである。だが、今となっては、権力中枢の奥深くに入れば入るほど、「破滅」に突き進む危険性を秘めていた。

 ソ連には、ロシアン・ルーレットと呼ばれる「殺人遊技」がある。回転式の拳銃に、一発だけ弾を込める。決闘や度胸試しの相手が、それぞれ自分のこめかみに銃口を当てて、弾倉をルーレットのように回しては相互に引き金を引くのである。恐怖で、ゲームを降りるのでなければ、最後までやり通すしかない。結果は、どちらかの確実な死である。

 ペンコフスキーの決断は、毒蛇や猛獣が巣食う危険な穴に単身乗り込んで、降りることのできないロシアン・ルーレットに挑むことを意味していた。

(World Review 編集長 松野仁貞)


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