『最高機密』~歴史の扉を開けた男たち~<10>


第二章 ロンドン 1961年


この胸には、千の心臓が高鳴っている。旗をあげろ、打ってかかれ、勇気の合い言葉、聖ジョージ、身方(みかた)の心にすさまじい竜の怒りを吹き込んでくれ!さあ、かかれ!勝利は、我らのものぞ。

                 ウィリアム・シェイクスピア(「リチャード三世」)


4 コードネーム"HERO"


 トルコの事件は、フルシチョフの裁定で一件落着したが、ペンコフスキーは、GRU内部で微妙な立場に置かれた。第四指導部の上級将校としての地位は、変わりなかったが、中途半端な扱いを受けたのである。

 GRUは、諜報機関とはいえ軍の組織である。どのような正当な理由であっても、一大佐が、准将とはいえ将軍の地位にある上官に反旗を翻すことは、全面的に受け入れられるものではなかった。理屈ではなく、軍人の本能のようなものである。どんなに優秀であっても、こうした行動を取った者を、好んで引き受ける将軍は、出てこなかった。

 まして、これまで超スピードでエリート街道を突き進んできたペンコフスキーに対しては、強い嫉妬を感じている者が多く、これを機会にペンコフスキーの失脚を願う向きも少なくなかったのである。

 こうした状況が、半年あまりも続いたある日、ペンコフスキーは、ワレンツォフを訪ねて苦境を訴えた。ペンコフスキーは、自分を「息子」と思ってくれているワレンツォフを巻き込むことは、避けたかった。だが、妻の父であるガバノビッチは、四年前に死亡している。苦渋の決断だった。

 ワレンツォフは、「息子」の訪問を喜んでくれた。ワレンツォフは、この時、国防省の戦術ミサイル部隊担当の総責任者である上級砲兵元帥に昇格していた。

 米ソの軍事的な緊張が高まる中で、核を相手国に撃ち込むためのミサイルが、新しい主要な兵器として脚光を浴び始めていた時期である。ワレンツォフは、ジェルジンスキー陸軍士官学校の九カ月間の専攻過程に籍を置くことを勧め、早速、各方面に手配りしてくれた。同課程を修了すれば、ミサイルについての最新知識を身に付けることができ、GRUを辞めて通常の軍務に復帰しても、それは充分に活かされるはずとの思い遣りだった。

 ワレンツォフとしては、諜報の世界と縁を切って、軍人本来のあるべき姿である通常軍務での輝かしい軍歴に復帰することを望んでおり、ペンコフスキーも同じ事を考え始めていた。

 ペンコフスキーは、専門課程を首席で修了した。第一線部隊の指揮官となるのは確実と思われた。だが、運命の悪戯が、ペンコフスキーをGRUに呼び戻すことになった。それも第四指導部勤務である。

 拒否する余地など全くなかった。これを命じたのは、ペンコフスキーが専門課程を修了する直前の五九年一月、GRU長官に就任したセロフだった。セロフは、トルコの事件が起こった当時、KGB議長として一部始終を知る立場にあり、ペンコフスキーを高く評価していたのである。トルコ事件の裁定を下したフルシチョフも、五八年三月にはソ連の最高権力者となっていた。

 ソ連は、インドに対して、極秘にミサイルを提供する準備を進めており、諜報員として最新の軍事ミサイル知識を持った優秀な人材を必要としていたのである。

 ペンコフスキーは、セロフから、在インド大使館の駐在武官として赴任することを命じられた。それは、将官(少将)への昇進も意味していた。

 だが、ここで思いもかけぬ事態が起きた。

 KGBが、ペンコフスキーの父親が白軍の将校だったことを突き止めたのである。ペンコフスキーの出生から、すでに四十年という長い月日が流れていた。KGBの恐るべき執拗さである。

 事情は急変、ペンコフスキーのインド赴任は、取り消された。「反革命分子」の家系とされた者は、国外に出ることは禁じられていた。ペンコフスキーの輝かしい経歴も、これまでと思われた。

 絶体絶命の窮地を救ったのは、長官のセロフだった。KGBの調査結果をなかったことにするのは不可能だが、絶大な政治力で、蓋をしたのである。

 セロフは、ペンコフスキーの実力を認めて信頼しており、ペンコフスキーも、セロフの命令は着実に遂行するように務めてきた。ペンコフスキーにしてみれば、セロフを個人的に慕っているわけではなかったが、外部からは、ペンコフスキーは、セロフの腹心と見られており、数あるGRU将校の中でもトップを走る存在だった。

 約二カ月後、党中央委員会も、ペンコフスキーの実績は、顔も覚えていないほどの「親子関係」で葬ることのできないほど貴重なものである、と決定した。セロフはもちろん、フルシチョフの意向が反映されていた。

 ペンコフスキーは、六〇年六月、GRUの諜報員養成機関であるアカデミーの入学者を選考する委託委員会の選考委員を命ぜられた。ここも将官(少将)への昇進が約束されたポストだった。そして、同年十一月十五日、第三指導部の特別班上級将校として、国家科学調査活動調整委員会を隠れ蓑にして、英米両国を主要な対象にした特別任務を与えれれることになったのである。

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 SISとCIAの総力を挙げた情報収集でも探り出せなかった数々の事実が、ペンコフスキーの口述で、次々に明らかになった。SISとCIAのエージェントたちは、ペンコフスキーが当初想定していたよりもはるかにソ連中枢部に食い込んでいる前代未聞の情報提供者であることを思い知らされた。

 口述が終わって、手渡されたペンコフスキー自筆のノートには、西側ではほとんど知られていなかったV-75地対空ミサイルや、SS-1、SS-4、そして最新鋭のSS-5、SS-6などの中距離弾道ミサイルなどに関する情報がギッシリと書き込まれており、設計図、写真のコピーなども多数添付されていた。

 選りすぐりのGRU将校であり、最新のミサイル情報にも通じた輝かしい経歴を持つ軍人であり、GRU、軍はもとより、党委員会、政府部内の実力者、大物、有力者と密接な人脈を持つペンコフスキーは、百戦錬磨のSIS、CIAのエージェントとっても初めて出会う人物だった。

 軍事、政治、経済、科学などあらゆる機密情報に接することができ、そしてそれぞれの情報の価値を正確に把握し、正確に分析できるのである。「エンサイクロペディア(大百科事典)」に匹敵する情報を持ち、オールマイティな能力を持った人物である。

 米国で、ペンコフスキーに匹敵する人物を捜すとすれば、陸軍士官学校、司令・参謀学校、陸軍大学などを優秀な成績で修了、実践でも輝かしい勲功を持つ将校で、陸軍参謀本部次長の娘と結婚、戦略空軍司令部の空軍大将に「息子」のようにかわいがられており、ペンタゴン(国防総省)にも深い人脈を持っている人物がまず、想定される。

 さらに実は、その人物は、国家安全保障局(NSA)、CIAなどの諜報機関の幹部で、大統領科学諮問委員会の委員の肩書きも持って、諜報活動を行っている。そして、大統領個人にも名前を覚えられており、CIA長官の腹心の部下で、ホワイトハウス、国家安全保障会議などとも重要な接触がある。将来は、統合参謀本部議長、CIA長官、大統領特別補佐官(安全保障問題担当)、国務長官、国防長官への道が約束されているということになる。

 このような人物が、実在するのは、米国では不可能である。だが、ソ連という特殊な体制の下という条件付きとは言え、ペンコフスキーは、そうした全てを備えていたのである。

 この時から、十六カ月間に渡って、ペンコフスキーとSIS、CIAとの関係が続いていくことになるが、CIAが、ペンコフスキーに与えたコード・ネームは「HERO(英雄)」だった。そして、それが、ペンコフスキーの全てを物語っていた。

(World Review 編集長 松野仁貞)



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