『最高機密』~歴史の扉を開いた男たち~<5>

第一章 ロンドン 1961年4月


今ぞなれを奴隷とする鎖をくだけ

自由民たるか はた永遠に奴隷たるか

今ぞそを決するの秋(とき)

忠実に誓わんかな

暴君の桎梏(しっこく)をもはや負わじと        ペテーフィ・シャンドール


4 ルビコン川


 四月二十日、ロンドンの空港には、代表団を率いて西側の土を踏んだペンコフスキーと、関係者に混じってペンコフスキーを出迎えるウィンの姿があった。

 ペンコフスキーは、ロンドン滞在中、超人的な能力で「三つの顔」を使い分け、まさに殺人的なスケジュールをこなした。

 一つは、国家科学調査活動調整委員会(GKKNR)外国部次長の肩書きで活動するソ連通商代表団団長の仕事である。

 代表団は、三十人近い大所帯である。ソ連人の外国での行動を監視するKGBの職員や密命を帯びたGRUのメンバーも複数含まれていた。

 ソ連の通商代表団といえば、鉄の規律を持った集団を想像してしまうが、一皮剥けば壮大な「お上りさん」の一面も持っている。ソ連国内では、KGBを恐れて誰も公言する者はいないが、西側は、一種あこがれの世界だった。特に、西側の実態についての情報を知り得る立場にある幹部たちの西側への潜在的な関心は、想像以上に高く、それは、専ら西側の「モノ」に向けられた。

 靴下、下着から洋服、装飾品、電化製品といったあらゆる品物を、彼らは、買い漁る習性を持っていた。西側のデパートで売っているバーゲン品の靴下でさえ、ソ連の高級幹部専用の売店で売っているものよりも、遙かに上質だった。

 西側の製品を手中にすることは、彼らにとって、偉大な「戦果」を挙げることだった。そして、その「貴重」な品々は、国内の幹部たちへの付け届けとしても、絶大な力を持っていた。

 メンバーたちは、本業よりも、買い物に関心があり、またとない機会を最大限に活用すべく行動したがった。代表団のロンドン滞在中の資金は、団長が管理しており、ペンコフスキーは、つまらぬ作業に忙殺された。

 また、最初は、西側の雰囲気に馴染めない団員たちの中には、数日経つうちに「自由を謳歌」する者も現れる。アルコールが入ると、粗野なソ連の特権階級意識を剥き出しにして、トラブルを引き起こすケースも少なくなかった。

 こうした内部の管理業務の他に、団長としての対外的な公的行事が、びっしりとスケジュールを埋めていた。ランチ、ディナーの大半も、公務を兼ねた。

 もう一つは、GRU第三指導部特別班上級将校としての任務である。

 代表団の肩書きを隠れ蓑にして、情報収集や情報提供者の獲得などの重要な使命を帯びていた。情報提供者といっても、すぐにスパイとして使うと言うことではなく、将来的に「使い道」のありそうな人物に目星を付けて、大使館に参事官として赴任しているGRUの現地責任者に引き合わせるなどするのである。もちろん、ペンコフスキーも参事官もGRUであることは伏せている。

 職務を熱心に果たしていることを印象づけるために、ペンコフスキーは、GRUの現地責任者との連絡、調整にも多くの時間を費やした。

 そして、もう一つは、ペンコフスキーの表現を借りれば、「新たな同盟」を確固たるものにすることである。これこそが、ペンコフスキーにとっては、ロンドン訪問の最大の目的である。

 ペンコフスキーは、分刻みのスケジュールをこなしながら、SIS、CIAとのコンタクトをとり続けた。

 国際貿易業者として、ペンコフスキー代表団の英国側の受け入れ窓口でもあったウィンが、常に連絡の役目を果たした。

 ペンコフスキーは、ファースト・コンタクトの夜以来、旧知となったSISのシャゴールド、ストーク、CIAのビューリク、キスヴァルターと三回にわたって、かろうじて密会することができた。

 場所は、代表団が投宿していたマウント・ロイヤル・ホテルとロンドン市内のSISの「セーフ・ハウス」(諜報員が使う隠れ家)が使われた。

 セーフ・ハウスで、ペンコフスキーは、メーデーのモスクワの軍事パレードの写真を示しながら、最新の軍事情報を解説した。SISとCIAは、中距離弾道ミサイルSS-4、SS-6、地対空ミサイルSA-2、地対地戦術ミサイルなどについて、初めて正確な情報を得たのである。それは、その後、NATO(大西洋条約機構)軍にももたらされた。

 また、ペンコフスキーは、モスクワの軍の最重要拠点について、驚くべき情報を提供した。

 ペンコフスキーは、モスクワの防空軍中央司令室、参謀本部など二十カ所以上の主要軍事施設の位置を正確に示したのである。これは、西側にとっては、有事の際に最重要の攻撃標的となる施設だった。これらの施設を破壊すれば、ソ連の防衛体制は大打撃を受けることになる。西側にとっては、多くの諜報員が膨大な時間をかけても全てを探り出すことは不可能とも思える貴重な情報である。

 続くペンコフスキーのレクチャーは、シャゴールドらSIS、CIAの度肝を抜いた。

 ペンコフスキーは、「これらの標的は、空爆やミサイル攻撃で、別個に破壊するのは極めて効率が悪い。成功の可能性は、五〇%以下だ。小型の核爆弾で、一気に破壊するのが最も有効と考える」と指摘した。

 その上で、「特殊部隊から選抜した少数精鋭の破壊工作班に、時限装置の付いた小型核爆弾を持たせて、標的を一気に破壊できる場所にセットさせる。他の軍事関連施設は、作戦から除外して、これらの最重要目標だけを破壊すべきだ。特に、軍管区司令部は、根こそぎ破壊する必要がある」など、詳細な意見を述べた。

 ペンコフスキーとSIS、CIAの間で、いくつかの重要な取り決めも結ばれた。

 ペンコフスキーに対しては、万が一、ソ連からの亡命を余儀なくされる場合には、米国もしくは英国の市民権を得て、相応の身分と仕事が与えられることが約束された。

 ペンコフスキーは、国外に出て直接接触することが出来なくなった場合の連絡の取り方や、無線通信を利用した極秘の連絡方法などについて指導を受けた。SIS、CIAによる「西側方式」の諜報活動のノウ・ハウが、短期間に伝授された。ペンコフスキーは、驚くべき能力で、完璧にそれらを吸収した。

 ペンコフスキーは、一連の密会の中で、SISとCIAに対して、英国内で活動するGRU、KGB諜報員のリストも提供している。それには、個々の写真とともに一人一人の詳細な経歴が付け加えられていた。

 「新しい同盟」は、動き始めた。ペンコフスキーは、「ルビコン川」を渡ったのである。