『最高機密』~歴史の扉を開いた男たち~<4>

第一章 ロンドン 1961年4月


今ぞなれを奴隷とする鎖をくだけ

自由民たるか はた永遠に奴隷たるか

今ぞそを決するの秋(とき)

忠実に誓わんかな

暴君の桎梏(しっこく)をもはや負わじと        ペテーフィ・シャンドール


2 謎の書簡


 ペンコフスキーが、西側との最初の接触を試みたのは、マウント・ロイヤル・ホテルでのファースト・コンタクトの約八カ月前、一九六〇年八月のことだった。

 核兵器の脅威を煽り、米国を執拗に挑発するソ連の「冒険主義」に強い危機感を募らせ、一方で、ソ連指導部内を蝕む裏切りと密告、特権を貪る腐敗の現状などを目の当たりにしたペンコフスキーは、困窮し締め付けられるばかりの一般国民の生活に共産主義の「欺瞞」を見て取り、ソ連との訣別を決意したのである。

 ペンコフスキーは、この頃、憑かれたように西側との接触を図った。モスクワに留学している米国の学生、モスクワを訪れた米国、英国、カナダなど西側諸国の旅行者を仲介にしてのコンタクトを何度も試みた。だが、いずれも失敗に終わる。

 在モスクワの米国大使館の職員にも打診したが、この時は、米国大使館は黙殺を決め込んだ。

 KGBが、西側の大使館員、大使館員の身分で活動している諜報員らをあぶり出して国外追放するために、情報提供者を装った囮(おとり)を使うことを知っていたので、あえて無視したのである。

 だが、一方で、CIAは、密かにペンコフスキーについての情報収集を開始、SISにも協力を依頼した。

 GRU大佐であること、ソ連指導部内での信頼が厚いこと、驚くべき早さで昇進を遂げていること、金銭や女性にまつわるスキャンダルは皆無であること、ソ連を裏切る個人的な要因は見当たらないことなどの情報が、次々に集まった。

 敵対国内部に情報提供者を作り上げる手段としては、金銭や女性スキャンダルなどを抱える者を密かに調べ上げて弱みを握ったり、ギャンブルやアルコールなどに溺れて金銭的に困窮している者に金銭を提供するなどの方法が取られる。もちろん、これぞと狙いを定めた相手を標的にして女性をあてがったりもする。同性愛者にでっち上げることもある。様々な手段でスキャンダル、弱みを作り、絡め取っていく。

 だが、こうして作られた情報提供者は、往々にして、情報提供者として取り込まれたのと同じ原因で、破綻するケースが多いのである。

 ペンコフスキーの場合は、初めてとも言える特異なケースだった。

 ソ連軍内部、そしてゆくゆくはソ連指導部内での無限の栄達の可能性を秘めた男が、自らの意志で情報提供者、スパイになると申し入れて来ているのである。


3 ジョイント・オペレーション


 CIAは、ペンコフスキー獲得の方針を決め、行動を開始した。

 CIA副長官(作戦計画担当)リチャード・ヘルムズと、マウント・ロイヤル・ホテルでのファースト・コンタクトに同席したSISのハワード・シャーゴールドが、ワシントンで協議、ペンコフスキー獲得をCIAとSISの「ジョイント・オペレーション」として実行することが決まった。

 偶然にも、CIAとSISが最終決断を下したのと同じ時期、一九六〇年十一月十五日に、ペンコフスキーは、諸外国と公的な関係を持って広範囲に海外に出かけることのできる国家科学調査活動調整委員会(GKKNR)の前身である国家科学・技術委員会(GNTK)担当を命ぜられた。

 CIAとSISの意向を受けて、ペンコフスキーと最初に接触する役は、ウィンに決定した。ウィンは、商用のためにモスクワを訪れることが多く、ペンコフスキーがGKKNR担当になる直前に、これもまた偶然にSISからGKKNRと接触する要請を受けており、まさに格好の人物だった。

 間髪を入れずにウィンは、ソ連訪問の英国通商代表団を組織し、代表団の先遣として六〇年十二月一日、単身モスクワに飛んだ。ソ連側の受け入れ担当は、GKKNRの外国部次長として、会談や国内視察旅行など代表団の日程を調整する権限を持つことになったばかりのペンコフスキーである。二人は、何の疑いも持たれずに話し合う充分な時間を共有した。

 ペンコフスキーは、当初、職業的な習性から、ウィンについても疑ってみる用心深さを示した。ペンコフスキーを罠にかけるためにSISが派遣した人物である可能性もあったからである。

 しかし、十二月八日、モスクワのシェレメチエヴォ空港で、英国通商代表団の一行を揃って出迎える頃には、二人の間に個人的な信頼感が醸成され始めていた。

 ウィンは、SISのために働いてはいたが、諜報員となるための高度な訓練を受けた正規の職員ではなかった。そのことが、結果的に幸いした。ウィンが、プロの諜報員だったならば、ペンコフスキーは、素早くそれを感じ取り、ウィンとの付き合い方も変わったであろう。

 だが、ウィンが、SISに協力しているのは、純粋な愛国心からであり、そのことが、ペンコフスキーの琴線に触れたのである。「素人」であるウィンの、ぎこちないながらも真摯な態度が、「プロ」であるペンコフスキーとの間で、インテリジェンス(諜報、情報)の世界では異例とも言える人間同士の付き合いを生み出すことになったのである。

 二人は、この後、親友とも言える関係を築いていくことになる。ウィンは、一九一九年三月生まれで、同年四月生まれのペンコフスキーとは、同年代である。食べ物や飲み物の好み、喫煙の習慣、そして何よりも感覚が同じだった。「ウマが合った」のであるが、幸運としか言いようがない歴史の偶然である。

 そして、ウィンとの信頼関係が、ペンコフスキーに、自らが西側に出向くことを決断させることになった。

 ペンコフスキーは、対ソ貿易に関心を持っている英国の商社などを訪問するためのソ連通商代表団を、年明けの早い時期にロンドンに派遣したい意向をウィンに伝える。ウィンは、早速、モスクワ滞在中に大方の手筈を整えた。

 だが、GRUにしてみれば、通商代表団を隠れ蓑にした諜報活動であり、人選や作戦計画に充分な時間をかけた。ペンコフスキーは、その諜報活動の責任者として派遣される訳で、異議を唱えることもできず、代表団の派遣が正式に決まるまでは、三月の末まで待つほかはなかった。

 こうした事情を知るはずもないウィンは、四月六日、ペンコフスキーの身に異変が起こったのではないかと危惧して、急遽、モスクワに舞い戻った。ウィンの心配は、杞憂に終わったが、代表団のリストを見せられたウィンは、貿易の交渉よりもあからさまに「情報収集」の意図が読み取れる代表団の構成に、これでは英国政府が受け入れを認めない可能性があると強い難色を示した。

 これに対して、ペンコフスキーは、この代表団を受け入れてもらえなければ、自分がロンドンに行くチャンスがなくなってしまう、と懸命の説得を続けた。

 この時、ペンコフスキーは、ソ連指導部に対する自分の考えを、初めて明確に口にした。 「ソ連の指導部は、危険なほど不安定だ」

 ペンコフスキーは、「自分は、ソ連の情勢について詳細まで知り尽くしている。直接、西側の関係者に会ってソ連の現状を伝えなければいけない。それができるのは自分しかいないのです。代表団の人員構成に、どうか異議を唱えないで欲しい」と、ウィンに語った。

 数日経って、ウィンは、英国政府が代表団の受け入れを了承したことを伝えた。

 四月十二日、モスクワを発つウィンに、ペンコフスキーは、一週間後に代表団を率いてロンドンを訪問することを告げる。同時に、SISに宛てた二重に封印がしてある手紙を託したのである。