『最高機密』~歴史の扉を開けた男たち~<7>

第二章 ロンドン 1961年


この胸には、千の心臓が高鳴っている。旗をあげろ、打ってかかれ、勇気の合い言葉、聖ジョージ、身方(みかた)の心にすさまじい竜の怒りを吹き込んでくれ!さあ、かかれ!勝利は、我らのものぞ。

                 ウィリアム・シェイクスピア(「リチャード三世」)


2 赤い貴族


 ペンコフスキーが、モスクワ軍管区政治部に抜擢されると同時に、ソ連を取り巻く世界情勢は急激な変化を見せる。

 モロトフの後を継いだスターリンが、名実共にソ連の最高権力者になった直後の一九四一年六月、独ソ不可侵条約を破ったヒトラーのナチス・ドイツが、対ソ攻撃を開始した。

 政治将校となっていたペンコフスキーは、ドイツ軍の進撃阻止に失敗した西部戦線司令官パブロフ、同参謀総長クリモフスキーら将軍たちの逮捕、処刑を命じるスターリンの極秘文書を目にする機会を得る。

 戦線は厳しさを増した。四一年秋からは、モスクワ防衛戦の準備を余儀なくされる。ソ連軍は、各地でドイツ軍と激戦を展開、翌四二年十一月から四三年二月にかけてはスターリングラードでの攻防戦が繰り広げられた。同年四月には、ドイツ軍がレニングラードを猛攻、これに対して。ソ連軍は各地で反撃に転じ、八月には総退却を始めたドイツ軍を追ってドニエプル川まで進軍、十一月にはキエフを奪還した。

 ペンコフスキーは、政治将校として充実した日々を過ごしていたが、いつしか前線に出て戦うことを強く希望するようになる。ソ連軍人として当然の愛国心である。加えて、国家を挙げての総力戦の様相の全ての情報に接することができる立場にあったことが、ペンコフスキーの前線行きの意欲をかき立てた。開戦から二年足らずの間に、英雄として表彰された者は数百人に上った。だが、ペンコフスキーは、対フィンランド戦であるカレリア戦線に従軍した際に、軍功としてシガレット・ケースをもらっていただけだった。

 大戦が終われば、ペンコフスキーの軍歴は、精彩のないものになってしまうに違いない。ペンコフスキーは、焦燥を感じ始めていた。数々の勲章を手にすることは、取りも直さず、国家に対して大いなる貢献をすることである。それは、軍人を志したペンコフスキーの初心でもあった。

 ペンコフスキーは、前線行きが実現するように各方面に懸命に働きかけた。そして、やっとのことで、キエフ奪還を契機にして、キエフ地区の第一ウクライナ戦線の砲兵隊司令官セルゲイ・セルゲービッチ・ワレンツォフ(砲兵中将)の下に配属されることになった。

 三九年に砲兵学校を卒業して少尉任官したばかりのペンコフスキーは、政治将校として特権切符を手にしており、四二年には、すでに少佐に昇進していた。ペンコフスキーは、砲兵連隊の指揮官に任じられると信じていた。だが、与えられたのは、交代部隊を訓練する責任者の任務だった。

 落胆したペンコフスキーは、前線に赴任して初めて、自分の立場を理解した。戦友たちは、いずれも激戦をくぐり抜け数々の勲章を手にしていた。ワレンツォフは、「実践の状況に慣れる必要がある」と、特別に声をかけてくれた。

 ペンコフスキーは、前線の中の後方任務ではあったが、戦闘で大損害を受けた対戦車砲兵連隊に代わって前線に送られる予備部隊の訓練に全力を挙げた。そして、四四年二月、念願の前線部隊指揮官となることができた。ワレンツォフの推薦で、第八警備対戦車砲兵旅団の連隊長に任命されたのである。

 ペンコフスキーの指揮する連隊は、四月半ば、テルノポリ奪還作戦に参加、ドイツ軍を敗走させた。ウクライナ戦線の小康が続いた後、六月には、リボーフとポーランド南部への攻撃作戦への参加を命じられる。だが、偵察作戦中に、頭部に負傷、モスクワでの療養を余儀なくされた。

 モスクワに戻ったペンコフスキーは、傷が癒えると、モスクワ軍管区政治部時代の上司であるガバノビッチを訪ねた。ガバノビッチは、息子が戻ったように歓待してくれた。そして、ワレンツォフが、前線視察中の自動車事故で腰の骨を折る大怪我をして、モスクワ・セレブリヤンヌの将軍病院に入院していることを教えてくれた。

 ペンコフスキーが見舞いに訪れると、ワレンツォフは、激痛に呻きながら、大事な時期に身動きが取れないことを、しきりに気にしていた。ワレンツォフは、ペンコフスキーを自分の分身として、砲兵隊への命令などを伝達する重要な役目に付けることを思い付いた。ペンコフスキーの資質を高く評価していたのである。

 ペンコフスキーは、即座に、第一ウクライナ戦線砲兵参謀本部付きの司令官専任連絡将校に任命された。同時に、リボーフにいる母親と娘の消息を確認することも依頼された。

 八月になって、軍務に復帰できるようになったペンコフスキーは、リボーフに赴き、ワレンツォフの母親と娘ニーナの悲劇を知った。

 ニーナの夫は将校(少佐)だったが、軍の物資を横領した罪で銃殺刑に処せられており、ニーナは、世間の厳しい目にさらされて自殺を図ったばかりだった。ワレンツォフの年老いた母親は、放心していた。ペンコフスキーは、自分の時計を売ったお金で棺と喪服を買ってニーナの葬式を出してやり、年老いた母親の今後の生活にまで細やかな気遣いを忘れなかった。

 モスクワに戻ったペンコフスキーは、詳細をワレンツォフに報告した。ワレンツォフは、普段の猛将ぶりとは、別人のように落胆、悲しんだ。そして、ペンコフスキーの心配りに深く感謝した。それ以来、ワレンツォフは、ペンコフスキーを「息子」と呼ぶようになった。

 ペンコフスキーは、十二月まで、ワレンツォフの連絡将校として、モスクワと前線を何度も往復した。それは、美しく成長したガバノビッチの娘ベラとの再会、恋に落ちるという幸運ももたらした。

 ワレンツォフの怪我が回復した十二月末、ペンコフスキーは、第五十一警備戦車駆逐連隊司令官となって、前線に復帰した。ペンコフスキーの連隊は、翌四五年一月半ば、南ポーランドの解放と南東部ドイツへの直接攻撃という最重要作戦に参加した。

 ペンコフスキーの連隊は、元帥コーネフ指揮下の中央集団軍に所属、ドイツ戦線を突破して最初のドイツの都市クレウズブルグを占領、壮烈な戦闘を繰り広げながら、オーデル川を渡ってドイツ軍を追撃し、ナイセ川まで進軍してベルリンへの最終攻撃に備えた。

 そして、四月には、南進兵団を援護、ドレスデンとプラーグを通り、チェコスロバキアからオーストリアに進入して、第三ウクライナ戦線部隊と交替することになった。

 中央集団軍の司令部が置かれていたドイツ南西部のバーデンに戻ったペンコフスキーに、フルンゼ士官学校への入学の打診があった。その頃は、すでに中佐に昇進しており、対ドイツ戦の激戦の中で、赤旗勲章二個、アレクサンドル・ネフスキー勲章、祖国戦争勲章第一等、赤星勲章、戦争英雄メダル八個を手にしていた。

 ヨーロッパでの戦争は、五月のドイツ降伏で終結した。ペンコフスキーは、八月、モスクワのフルンゼ陸軍士官学校に入学、同年秋にガバノビッチの、娘ベラと結婚した。

 翌年、長女ガリーナが生まれ、モスクワ川を見渡すことができるマキシム・ゴーリキー堤防の上に建てられた新築の九階建てのアパートに入居した。モスクワ軍管区軍事評議員兼政治部長として、絶大な権力を持っていた政治少将である義父のガバノビッチの手配りだった。

 ペンコフスキーは、義父を通じて、モスクワ軍管区幕僚、モスクワ守備隊、参謀本部などの上級将校、上層の指揮官階級の将校らに多くの知己を得た。それは、ペンコフスキーを羨んだ士官学校の同僚たちが、無実の罪をでっち上げて秘密警察に密告する「事件」を起こすほどの華麗な人脈だった。

 四八年八月、三年間の課程を修了したペンコフスキーは、フルンゼ士官学校を卒業した。ペンコフスキーは、胸に同士官学校を卒業した証のダイヤモンド型の記章を輝かせて、わずか一年間の間にモスクワ軍管区の組織動員指導部上級将校、ソ連国防省地上軍司令官幕僚などを歴任した。

 約二百人のアカデミー修了生のうちで、直接モスクワ勤務となるのは限られており、ペンコフスキーの経歴は、その少数の超エリートの一人となったことを示していた。

 ペンコフスキーは、「赤い貴族」とも呼ばれるソ連の特権支配階級ノーメンクラツーラの一員となったのである。

(World Review 編集長 松野仁貞)