『最高機密』~歴史の扉を開いた男たち~<6>


第二章 ロンドン 1961年


この胸には、千の心臓が高鳴っている。旗をあげろ、打ってかかれ、勇気の合い言葉、聖ジョージ、身方(みかた)の心にすさまじい竜の怒りを吹き込んでくれ!さあ、かかれ!勝利は、我らのものぞ。

                 ウィリアム・シェイクスピア(「リチャード三世」)


1 十字架


 GRU(ゲ・アル・ウ)(ソ連国防軍参謀本部諜報総局)大佐オレグ・ペンコフスキーが、ロンドンのマウント・ロイヤル・ホテルでのファーストコンタクトで、英SIS(秘密諜報部)、米CIA(中央情報局)に対して口述した自らの経歴、背景は、詳細に渡った。口述は、午後十一時から始まり、午前二時半にまで及んだ。

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 ペンコフスキーは、一九一九年四月二十三日、コーカサス地方のオルジョニキジェ市(ウラジカフカズ)で生まれた。国籍はロシアである。生後間もなく、ロシア正教の洗礼を受けた。

 ペンコフスキー家は、ロマノフ王朝時代の帝政ロシアの高級文官の家系で、祖父フリアン・アントノビッチ・ペンコフスキーは、スタブロポリ市の判事などを歴任していた。

 父ウラジミール・フリヤノビッチ・ペンコフスキーは、一八九五年生まれで、ワルシャワ工科大学を卒業した技師だったが、一九一七年のロシア革命勃発を受けて、帝政ロシア軍(白軍)に身を投じ、一九年に砲兵旅団の中尉で戦死している。

 ここで注目すべきは、ペンコフスキー家は、ロシア革命が倒そうとした帝政側の支配・特権階級だったことである。ペンコフスキーの祖父は、革命前に死亡しているが、父は、まさにソビエト軍(赤軍)と激戦した反革命の戦士だったのである。

 ロシア革命後に成立した共産主義ソビエト政権下では、帝政ロシアに与した人々は、徹底的に追求され排除された。家族、親族が帝政ロシア側についていただけで、共産主義の新体制の中では、立身出世はもとより生き抜くことさえも極めて困難とされた。

 父親が、白軍の将校だったとすれば、なおさらである。ペンコフスキーは、GRUの高級情報将校となって、国家の中枢部に居場所を得るなど思いもよらぬ「十字架」を背負って生まれたのである。

 共産主義体制を盤石にするために、後にKGB(カ・ゲ・ベ)(国家保安委員会)となる秘密警察が、国内のあらゆる組織、階層に目を光らせており、ある者は強制収容所(ラーゲリ)に送られ、ある者は社会的に抹殺・排除され、そしてある者は密かに命を奪われた。

 こうした監視は、その後、八十年以上に渡って、延々と続けられた。かろうじて追求の網から漏れて政府・軍の高官になっている者でも、KGB目を付けられれば、それで終わりだった。政治的に、強引に過去をこじつけられることも例外ではなかった。

 だが、ペンコフスキーは、強運だった。明確な理由は、謎のままだが、鋭い監視の目から漏れたのである。ペンコフスキーの父は彼の出生直後に戦死しており、ペンコフスキーは父の顔さえ知らなかったこと、革命直後の極度の混乱など様々な要因が、偶然にも絡み合ったと思われる。

 驚くべき事に、四十年後に、KGBが突き止めるまで、ペンコフスキーの秘密は、誰にも知られることはなかったのである。そして、発覚後も、将官に昇進するの邪魔されるといった程度で済んだことは、ペンコフスキーの運の強さを物語っている。

 ペンコフスキー一族は、確かに幸運だった。

 祖父の弟であるワレンチン・アントノビッチ・ペンコフスキーも、防空軍極東連隊司令官在任中に「ペンコフスキー家」の一族であることが発覚、一九三七年から約二年間投獄されたが、第二次世界大戦勃発と共に釈放された。第二十一軍参謀長として現役に復帰後は、国防相となる元帥マリノフスキーに見い出されて、極東軍管区参謀長、極東軍管区部隊の司令官などを歴任、ソ連陸軍中将にまで上り詰めている。

 ペンコフスキーの母タイシャ・ヤコブレブナ・ペンコフスカヤ(一九〇〇年生まれ)は、革命後の混乱の中で、あらゆる手段を尽くして息子の命を守った。

 ペンコフスキーは、母親の元で、できる限り「ソビエト」的な環境で育てられた。八歳でオルジョニキジェの学校に入学したペンコフスキーは、祖父や父譲りの利発な青年に成長、一九三七年、十学年を終了して中等学校(日本の高等学校に相当)を卒業した。

 中等学校の十年間で、ペンコフスキーは、ソ連陸軍の指揮官になることを夢見るようになった。特に、帝政ロシアからの伝統で、ソ連では砲兵が特権的なエリート軍人と見なされており、ペンコフスキーは、迷わず砲兵への道を選択する。

 十八歳の時である。ペンコフスキーは、一人でキエフに向かう長旅の列車に乗って、初めて故郷コーカサスを離れた。キエフにある第二キエフ砲兵学校に入学するためである。

 同級生の中でも、高等教育を終えた生徒は、当時まだ少なく、ペンコフスキーは、将来を嘱望される一人となった。

 三七年の入学と同時に、ペンコフスキーは、コムソモール(全ソ共産青年同盟)のメンバーとなり、卒業の少し前には、ソ連共産党員候補の資格を得た。そして、三十九年の卒業と同時に、砲兵少尉に任官、砲兵中隊の政治将校(ポルトリーク)に任命される。

 通常ならは、砲兵大隊の部隊指揮官として配属されるのが一般的であるが、コムソモールでの活動、砲兵学校での成績、ソ連共産党員候補に選ばれたことなどで、政治将校に抜擢されたのである。

 政治将校とは、軍隊内で軍人を監視する特権的な立場で、未来への扉が開かれたことを示していた。

 ペンコフスキーは、ドイツ軍のポーランド侵攻を受けてソ連軍が進駐した第一西部戦線(ポーランド戦)に従軍後、シベリア軍管区第九十一小銃師団の第三百二十一砲兵中隊に転任、対フィンランド戦が始まるとカレリア戦線に転戦した。

 ソ連共産党は、四〇年、ペンコフスキーを正式なソ連共産党員として迎え入れた。党員番号「01783176」。ペンコフスキーは、カレリア戦線から呼び戻され、モスクワ軍管区政治部の所属となる。

 ペンコフスキーは、モスクワの砲兵学校コムソモール活動政治部次長(四〇~四十一年)、モスクワ軍管区コムソモール活動政治部指導部上級教官(四一~四十二年)、モスクワ軍管区軍事評議会特務将校(四二~四三年)を歴任する。

 政治将校に抜擢されたペンコフスキーは、同僚の青年将校には思いもよらぬ世界を垣間見ることができ、それで、ソ連指導部に通じる人脈を広げていくことになった。

 砲兵学校を卒業して砲兵中隊のポルトリークに任命された直後、革命の英雄である元帥チモシェンコがペンコフスキーの所属する連隊を訪れた時のことである。見知らぬ男が、元帥とともにペンコフスキーの司令官と談笑していた。それが、当時はモスクワ軍管区軍事評議会のメンバーだったニキータ・フルシチョフ(後の首相)だった。

 また、モスクワ軍管区政治部時代の直属の上司は、政治部長のドミトリー・アファナシエビッチ・ガバノビッチ(政治少将)という人物で、ペンコフスキーは、彼に格別に気に入られた。

 ガバノビッチは、ペンコフスキーを自宅に招き、家族も紹介するようになる。当時、ガバノビッチには、十四歳の娘がいたが、それがペンコフスキーの妻となるベラ・ドミトリエブナ・ガバノビッチだった。

 ペンコフスキーは、ソ連指導部への輝かしい道を猛スピードで歩み始めたのである。

(World Review 編集長 松野仁貞)