◇小堀晋一のアジアリポート

 8年ぶりの総選挙が実施されたタイで新たな「民選」の政権が発足し、5年余り続いた軍による暫定政権が終わりを告げようとしている。6月中にも組閣を終え本格始動するが、軍の強い影響力を残したままで「民選」の言葉が霞んで見える。タイはこの20年間、同じ歴史を繰り返すばかりであった。選挙は実施されるのだが、やがて政治は行き詰まり、軍の介入する事態に。21世紀にもなって、かくも民主主義が定着しないのはなぜなのか。それを考察した時、安易にも「半分の民主主義」「タイ式民主主義」などという言葉を使ってお茶を濁し、正面から向き合うことを避けてきた我々の、無知と臆面もない厚顔ぶりに突き当たるのである。(ジャーナリスト 在バンコク 小堀晋一)

 人権思想に触れ、近代市民革命を体験してきた歴代の先進資本主義諸国において、国家の基本的な枠組みの中心に民主主義があったことに疑いはない。寛容と忍耐を要件とするそれは、少数派が多数意見に譲って一定の時限を付けて委任するもので、選挙などの事後的な検証が抑止の効果を生んできた。だが、それは図らずも過半に達しようとする国民の了解と、国の十分な機構と制度が備わってはじめて可能となるもので、ともに充足されているとは言いがたいタイなどの後進国では、当を得た議論とはならないことは申し述べるまでもない。

 法による統治の仕組みや国の成り立ちなど、近代社会の理解に関わる学習を多くの若者たちが一律に積んでいないのがタイの悲しき実情だ。政府はナショナルヒストリーの起源を13世紀のスコータイ王朝に求め、〝万世一系〟から外れる小史についてはほとんど手を差し伸べない。穏健な多党制が好ましい現状にも関わらず、西洋から対決型の小選挙区制を輸入し金科玉条のごとくに当てはめようとする。選挙が公正に機能しないのは政治家が不正をするからではなく、不正を摘発する仕組みと制度が機能していないからということに気づかない。こうした無知と無理解が民主主義の真っ当な定着を阻んでいる。

 2014年5月の軍事クーデター直前の様子を思い起こしてみれば、それは容易に理解されるだろう。バンコクの主要交差点は反政府を謳う高学歴の民衆とそれを後押しする当時の民主党議員、さらには支持する富裕層らによって封鎖され、都市機能は多くが麻痺。少なくない小規模企業や個人事業主が廃業を余儀なくされるなど多大な損害を受けた。軍は何度も話し合いによる解決を求めて仲裁を試みたが、両陣営の頑なな態度に最後は匙を投げ軍事介入へと突き進んだ。少なくとも今次クーデターに、政権を掌握しようという軍の意思は当初は存在しなかった。


軍事クーデターの誘引となった街頭デモは民主党の重鎮議員ステープ元首相が主導した=2014年1月、バンコクで小堀晋一撮影

 一方で、今日に至るまで交差点等を占拠し、街を破壊し、違法行為を繰り返した者は一人として処罰を受けてはいない。求める世論も少なく、政治も無関心。今後も可能性は極めて少ないのが現実だ。赤対黄の対決となった2000年代後半の混乱の再現に等しく、法も政治も機能不全に陥っているのがこのところの「法治国家タイ」の現状なのである。こうした土壌に、成熟した国家形態の一つ、民主主義が馴染むとは到底考えにくい。その不全は、タイ自らの選択と行動によって引き起こされたにすぎないからである。


バンコクの主要交差点を埋め尽くした反政府派の集会の様子=2014年1月、バンコクで小堀晋一撮影

 今回の「民政復帰」に、報道各社は「見せかけの民政」(朝日6月6日付)、「タイの民主主義なお未熟」(日経6月5日付)などと手厳しく酷評するが、その根拠や向き合った詳細な検証は何ら示し切れてはいない。民主主義の後退とばかりに勢いの良い言葉で強調はするものの、この国が真の民主主義を受け入れられるかといった点については言及をしない。ただ言葉の利便性だけを背景に、「半分の民主主義」とか「タイ式民主主義」などと呼んで論評を装ってきた功と罪がここにある。

 歴代のタイ王国憲法はその冒頭第2条で「タイ王国は国王を元首とする民主主義制度を採る」と定める。なるほど、文言からすれば日本をはじめ他の先進資本主義諸国同様、タイも市場秩序を基礎とした民主主義を国家の基本に据えるとの意思と読める。一方で、それは国際社会に対する宣言と約束でもなければならない。ところが、タイの場合は違った。軍政下でプラユット暫定首相は「(西側諸国のいう)民主主義よりも大切なものがある」と繰り返し訴えてきた。この国の複雑な歩みと事情を我々はもっと識らなければならない。


テレビ放送で全権掌握を告げるプラユット陸軍司令官(中央、当時)=2014年5月22日、テレビ放送から

 タイ語で民主主義は「プラチャー・テイッパタイ(ประชาธิปไตย)」という。「プラチャー(ปุรชา)」はサンスクリット語で「群衆」や「民衆」。「ティッパタイ(อธืปเตยูย)」はパーリ語で「偉大なるもの」、英語でいうところの「sovereignty(主権、統治権)」を意味する。合わせて「民衆による主権」。タイには存在しなかったこの合成語が、外来語の力を借りて生まれ定着したのは、第1次世界大戦最中の1910年代半ばころとみられている。フランスに留学した青年将校・官僚たちがヨーロッパの近代立憲主義思想に感化され、持ち込んだとする説が有力だ。1918年作成のバンコク地図には「民主主義通り(ถนนวิทยุ)」という地名も登場する。

 当時のタイは国王による絶対王政時代。主権は国王のみにあり、その権益は血のつながりで結ばれた一握りの王族グループらによって牛耳られていた。こうした中、社会的にも経済的にも力をつけた青年将校・官僚たちが、次世代の国の舵取りをめぐって対抗しようと引き起こしたのが1932年の立憲革命だった。王権は制限され、憲法による統治の模索が試みられる。現在の民主党の源流となる人民党が結成されたのもこの時期だ。

 結果、タイでは比較的早期に普通選挙制度が導入され、二院制も実現した。上下両院が間接も含むともに民選とされ、軍人や官僚らの政治参加が禁止された時期もわずかにあった。だが、いずれも長く続くことはなく、政治対立の度に軍事介入を受けてリセットをされ続けていく。そしてこの間、常に蚊帳の外に置かれ続けたのが人口の8割以上を占める貧しい国民=農民だった。彼らが政治に向ける関心も、微塵だに向上することはなかった。


インラック政権は総選挙実施で事態の打開を図ったが、反タクシン派の憲法裁判所が無効とした。写真は投票する有権者=2014年2月、バンコクで小堀晋一撮影

 その農民たちがはじめて組織的に目覚めたとされるきっかけが、2001年に誕生したタクシン政権だった。タクシン元首相は力の源泉を選挙に求め、それまで顧みられることのなかった農村に手を差し伸べた。農民たちは選挙による社会変革をはじめて知った。同時に、等しい自身の1票が金で売れるということも。こうして金で買われる選挙戦は、ますます民主主義本来の姿から乖離していった。一向に取り締まらない統治機構がそれを後押しした。

 国を政治的に経済的に支配してきた既得権益層も、現状からの変革を頑ななまでに拒否し続けてきた。富む者は永遠に富める権利があると誤信した。選民思想と言ってもいい。自身では先進国入りを目指しながら、相続税制や固定資産税制がこれほどまでに機能しない国は珍しい。タイは富の再分配を受け入れがたい条件と拒絶しながら、形だけの民主主義を目指したのだった。


当時のタクシン派も集会を開いて反政府デモに対抗した=2014年5月、バンコクで小堀晋一撮影

 今回誕生したプラユット新政権は、特に大きな政治課題が生じない限り、政権を手放すことは当面はないだろう。その姿はかつてのプレーム政権(1980~88年)を彷彿とさせる。だが、現在の国際的政治的背景は当時とは比べものにならないほど複雑で、いつ何時に新たな幕が開くとも限らない。その時までに知っておかねばならぬことが一つあると筆者は信じている。残念ながら、タイにはまだ民主主義は存在しない。「半分の民主主義」とか「タイ式民主主義」などという語感の良い言葉に引きずられて理解したふりをするのは、もう止めよう。タイの将来は、図らずも貴方自身の良心の中にしかないのだから。